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序文-2
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安曇野の歴史

小岩盛親については、郷土史等文献に明確に表されていない。その理由として、徳川300年の体制が、500年前の郷土の歴史にも少なからず影響を与えてきたことは推察される。

一旦は(約30年間)武田晴信に統治された安曇、松本一帯も、信玄亡き後は徳川家康の庇護のもとに小笠原氏が松本に復帰した。松本城主小笠原貞慶は、安筑統一のため武田方に寝返った仁科一族をはじめ多くの地元武将達を厳しく成敗した。

謀反人という汚名は、その後の文献や系図等に都合よく改ざんが加えられている可能性を高いとみるのである。


小岩盛親は、平維盛の六代後、平盛忠を祖とする安曇一帯を支配していた森城主(現在の大町市)仁科盛胤の3男として、明応6年の春(1497年)に生まれた。 ⇒平維盛参照

当時、南北安曇は仁科氏の統治下にあった、幕府の命を受けて信濃の守護として府中松本に赴任してきた小笠原氏の圧力は強く、地頭達との争いは絶えなかった。
そうした不安定な情勢を素早く読み取った甲斐の武田氏は、信濃攻略を進めていた。武田氏が駿河の今川、尾張の織田といった強国を背後に信濃へ進出してきた理由の一つに、安曇野は甲斐にはない穀倉地帯としての魅力があったからである。


一国としては大国である信濃の国は、四つに分断された立地条件、守護大名小笠原氏と小競り合いを起こしていた地頭等、結束のないところに目をつけた。 ⇒大塔合戦参照

大永2年(1522年)森城主仁科盛胤は、南北安曇の中央に位置し、且つ、陸海を結ぶ主要街道の宿城として小岩嶽城を築き、初代城主に盛親を任じた。これは小笠原氏への牽制と、穂高を中心とした仁科一族を固める目的である。

だが、小岩嶽築城にあたり、地元の豪族古厩氏との確執が後の武田氏との戦いに微妙なひびを入れていくことになる。


もともと小岩嶽部落一帯は、当時仁科氏の縁戚にあたる古厩因幡守盛晴が古厩郷として支配していた。盛晴は仁科盛知の甥であり、盛知を遡れば森城主仁科盛園の孫にあたる。

盛園亡き後は弟の盛房が相続し、持盛、明盛、盛胤と継がれてきた。盛知は仁科の本家筋から外れ、大伴冶部少輔と名乗り大町を出て穂高一帯を統治していった。盛知の孫にあたる盛晴は、穂高の北西に古厩城を築きそこの城主に、同じく孫にあたる堀金安芸守盛公は、岩原城主となって穂高の南西一帯を治めていた。 


天文7年(1538年)盛胤の嫡男盛能は、小笠原氏への忠誠のため娘を小笠原長棟の嫡男長時に嫁がせた。この時、14歳の幼い花嫁の後見役としての立場が盛親にあった。盛能は娘の将来と仁科の行く末を盛親に託した。

小笠原氏との婚姻は、仁科一族に大きな波紋を齎した。小笠原氏に服従するか、仁科独自の統治を図るかの選択をめぐり、盛能派と盛明派の二派に分断されようとしていた。

その渦中にあって、城主盛能は家臣のために殺害された。その後を継いだ盛明の小笠原氏への反抗は強まった。武田晴信は、この機会を今かと狙っていたのである。こうして信濃攻略の手口を掴んだ晴信は、小笠原氏追放に向けて府中松本に攻め込んできた。


小笠原長時は、国主として各地の豪族に援護を求め結束を固めていった。だが、武田晴信の策謀は巧妙であり、諸豪の結束を乱しにかかった。先ず仁科盛明の離反である、兼ねてから長時を疎ましく思う盛明は、仁科存続のため堀金氏や穂高氏といった一族に長時討伐の手を拡げていった。

小岩盛親は姪の婿である長時に忠節を誓った、人間的にわがままだった長時の性格に翻弄されることも暫しあった。盛明の離反が一層長時の目を曇らせ、姪の身にも危険が及んだ。盛親はその都度林城に参じては長時の心を宥めた。


天文14年(1545年)、長時に3男貞慶が誕生、後の松本城主である。これを機に長時の盛親への態度も変化していく、明日を託す子供の誕生が今までの迷いや猜疑心を完全に払拭させたのであろう。




2001年6月作成 著作権  UZU kiguchi/hiroshi