安曇野の歴史
天文19年(1550年)、武田晴信の府中攻略が本格化した。仁科盛明の小笠原氏からの離反は安筑一帯の豪族にも影響を与えていった。
古厩盛晴の跡目を継いだ嫡男盛兼の子盛勝は、祖父の因幡守を名乗り古厩城主として盛親に仕えていた。盛親は、この利発な甥をわが子同様に目をかけてきた。それは、小岩嶽築城における盛兼の突然の死にあった。盛兼の死は、父盛胤の策略によって殺害されたという噂があった、当時幼かった盛勝には知る由もなかったが・・・・。
盛明の誘いは岩原城主堀金氏にも及んだ、初代城主堀金安芸守盛公には跡目がなく、仁科盛胤の六男仁科清国金蔵を養子として迎え入れた。清国金蔵は、その後堀金平太夫盛広と名乗り岩原城を継いでいた。
天文20年1551年10月、武田晴信軍は中塔城に篭った小笠原長時を追放し小岩嶽城に攻撃を向けた。小笠原軍最後の牙城となった小岩嶽城は、500人足らずの兵を持って3000余の武田軍に立ち向かった。
三方山に囲まれた要害は一方にしか攻め口はない、このままでは味方の兵力も半減し、地の利をもつ盛親軍を突破するには容易なことではない。晴信は、火攻めという戦法を何度か試みたが何れも失敗に終わった。水、水、この時、晴信の脳裏に水が走った。
小岩嶽城の周りには大きな洞窟が二つある、それぞれ大人50人は十分入れる大きなもので、その上を一枚岩が被っている。女子供を敵から守るにも大いに役立つ、また、兵糧を蓄えておくには格好の場所でもあった。
盛親はこうした地の利を十分活かした。さらに城の山手奥は小岩嶽部落は勿論、安曇平一帯が見渡せる場所がある。そこに物見を置いて敵の動きを素早く知ることができた。3ヶ月の籠城は完璧な備えの上での結果である。
まさか水源が絶たれるとは盛親の頭になかった、それが、ある裏切り者のため水が絶たれた。城内は混乱し思いも寄らない事態に、兵士達の心は異常になった、死への恐怖がわが身に襲ったのである。
城を出て武田軍に猛進していく者、雨乞いを行なう者、辺り構わず土を掘るもの、一瞬の間にそれまでの規律は乱れていった。
千国街道の要所、小岩嶽城は眼下に安曇野を見下ろす景勝の地でもある。秋には黄金色に輝く穀倉地帯、春にはレン ゲの花がここかしこ緑の毛氈に桃色の彩を添える、盛親の目にもはっきりと判る、その赤い彩が一斉に怒涛の如く攻め入ってきた、体がたまらなく熱い、空を仰ぐ、一点の曇もない、何故裏切ったのだ、隙間風のように頭を過ぎった。人間50年・・・今まさに55の時を迎えた、悔いなしの人生と思った、耳元に自分を呼ぶ声が聞こえた、盛康か、秋の風が過ぎていく・・・天文21年8月12日のことである。
盛親、盛康父子の亡骸は、安養山青原寺に葬られている。青原寺は小岩嶽城の北にあって盛親父子の菩提寺となっている。
写真の位牌には、當寺開基と印し
右に真晴院殿前図書小岩盛親大居士
左に青原寺殿前兵部安曳盛康大居士 と印されている。
勿論小岩盛親父子の位牌である。
完
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2001年6月作成 著作権 UZU kiguchi/hiroshi
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