大塔合戦                     応永7年(1400年) 室町時代

信濃国の守護職を任じられた小笠原長秀は、地元豪族への一国成敗の権威を示すため、善光寺に国人一同を集めようとした。これに反発をした国人(地頭)達は結集し、小笠原氏追放に立ち上がった。

仁科、禰津、春日、香坂、西牧、宮高、落合氏の大文字一揆軍と、村上、海野氏の連合軍は、長野の善光寺を発った小笠原長秀を塩崎城に追い込み、これを破った。更に、更埴市大塔の要害にろう城した小笠原軍の将、坂西長国を自害させた。小笠原長秀は、一門の大井光矩の計らいで講和を結び、京都に逃れた。この大塔合戦は建武の乱以降、30年に及ぶ守護大名と国人達の総括としての戦いであった。


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