退位の礼、象徴天皇の在り方を問う

平成も今日で終わりとなり、明日からは令和の時代に入る。ここ数日テレビ中継を見るに、国民の多くはいや少ないとみるべきか天皇、皇后の皇室行事に大分関心があって、なぜかむなしいというよりこれが現実なのかと情けない思いがする。また、それに伴い各テレビ局は天皇皇后のための回顧映像も頻繁に流した。

新憲法第一条の国民の総意に基ずく象徴とは何を意味する、私なりに解釈してきたのは象徴とは権力のないまた国民の総意の上に置かれた我が国のシンボルとでもいえようか、総意とは国民すべての意志や考え方を指す、そう理解する。だから従来の君主時代の天皇とは身分や地位は大きく異なっていなくてはならないと。

ところが天皇退位の儀式にもみられるように一部は新憲法に配慮した面もあるがほとんどが200数年前の前例を基に執り行っていたことに大変驚く。昭和天皇の時代は新旧憲法が重なる部分等もあって国民に配慮してか、旧天皇制のままの儀礼等にも抵抗感はなかった。

改めて象徴の意味をどうとらえるか、議論を呼ぶ。民主主義国家である以上万民は法の下で平等である、その建前から思うに天皇の呼称にしても天皇陛下、皇后陛下、美智子様、雅子様等々の呼び方にも違和感を感じている。国民の目線で天皇、皇后、美智子さん、雅子さんではいけないのか、ここにも疑問が残る。お言葉をいただいた、ありがたい、もったいない、等々の声を聴くに言葉ひとつひとつが君主天皇j時代のように響いてならない。

それはまさに北朝鮮国家が将軍様と君主にひれ伏すのと何らそん色のない響きである。戦後70数年経とうとしている、そして明日から新天皇が即位となる、しかし時代は民主主義国家の衣を着たままで、その中身は君主国家のまま変わらない。またそれらを取り仕切ってきた政府や宮内庁、有識者と呼ばれる各界の関係者たちの存在すら恐ろしい。

明日から令和への新時代を迎えるにあたり、心機一転は宮内庁はじめ政府関係者たちに行っていただきたい。民主主義とは法の下で万民が平等である、天皇という特別な地位を支えてきたことはむしろ過ちであって天皇というのはあくまで国民の総意に基ずく地位であることを忘れてはならない。「人の上に人をつくらず」の言葉こそ民主国家のあるべき姿である。先ごろも天皇皇后が伊勢神宮へ参拝したというが、何を祈り何を告げたのか、これも旧来の天皇のしきたりに倣ってのことならば、令和の時代はこうしたことはなくすべきと思う。

なぜなら、伊勢神宮の神は全国津々浦々の神の上に立つ神であって、天皇家が伊勢神宮を私物化することは国民の総意から外れ憲法違反であり、天皇イコール神という旧来のしきたりを踏襲させる何物でもないからである。

さらに今回の退位の儀においても悉く旧憲法下の前例ばかりが紹介されそれを踏襲するといった皇室典範との照合ばかりが目立ったことも憂慮する。これでは主権在民をうたった憲法第1条はどうなるのか、あくまで主役は国民でありその総意の下に天皇という地位があることを明確に伝えられなくてはならない。現人神といった言葉も死語となり、行幸といった行為も死語としていかねばなるまい。

また、退位後の上皇という地位も現憲法下にあってふさわしいか議論が必要である。特に宮内庁はじめ皇室典範作成等に係ってきた人間たちの古い考え方を危惧している。はっきり申すなら天皇の行為等はすべて憲法の下で行っていくのが民主国家としてこれからの務めである。

象徴ということについてある学者は、いつの時代も国民の象徴であったという例を出していたが、旧憲法下にあっては君主としての象徴であり、その点が現憲法下と大きく異なっている。それらを考慮しないで発言する学者バカにも驚いている。

象徴という地位を国民一人一人が考え、国民の総意とは一人一人が納得した上での天皇という地位でなくてはならない。この骨格が憲法第1条の規定である。第二次世界大戦終結を境に天皇の地位は大きく変わったのである。前例はあくまで前例であって、皇位継承はじめ皇室の扱いについては過去の前例に捉われず新たな考えの上に立ち法整備を行っていくべきである。そのためには現憲法に符合しない皇室典範の廃止もしくは見直しが早急に求められる。


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2019.4.30

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