独学の定義 |
私は、美術学校など専門的なところで油彩画を学んだことはない、世間的には独学である。社会は独学という言葉を使って、美術教育を受けた者と区別しているが、私に云わせれば、絵画の技法は誰もが独学で身につけていくものである。例え、ある先生について習ったとしてもその域から出なくては一人前の画家にはなりえない。それは東京芸大を卒業すれば誰もが画家になれるかというと必ずしもそうではなく、ほんの一握りの人間しか画家になれないように、美術教育が画家になるための十分条件ではないことを示している。ある芸大卒の画家はこうも云っている「なまじ芸大で専門教育を受けたため、自分独自の画風、画を描くのに何十年もかかった」との話にあるように、美術教育必ずしも為ならずことを物語る。
では独学で画家として大成できた人間はというと、それは芸大出の画家ほど多くないことは確かだ。それは社会一般の目が大きく左右しているからで、独学者と芸大卒者との間には何ら画家としての価値に差などない。つまり最終的には、人真似でない自分の画を描き、それが芸術として認められるなら両者に何らそん色はなく、対等であるということだ。
ある愛知県下の進学校で、美術教師が教え子から進路について相談を受けたときのことだ。画家になるためには美術学校へ行くべきかの質問に教師は首を振って、「決して美術学校を目指してはならない、それよりも先ず人間として教養を身につけることが大切です、普通の大学に進みなさい」と答えた。
私は、この話を聞いてなるほどと今でも忘れない大切な言葉である。画はその人となりといわれる。技法ばかりが上達しても決して良い絵にはならない、これは美術批評家洲の内徹の言葉である。良い絵と上手い絵を区別した批評である。画は人間そのものが表われてこないと駄目であって、技術を身につけても、人間ができてこないと上辺っ面だけの銭湯の画になってしまうということだろう。
こうしてみると独学と美術教育を受けた者とに如何ほどの違いがあろうか。風景を描くものは自然からその技法を学べばよい。人物や生物を描くのも然り、その対象物が何よりの先生である。また、近年現代美術と呼ばれる美術も定着してきたが、これもすべて作者の人間性に委ねること大であることに変わりない。結論を言えば、独学とはすべての芸術家に課せられた称号でなくてはならない。ここに音楽などと一線を画す美術としての真価が問われるのである。