画家を目指して |
30年近く勤めあげた会社を退職し、画家として絵の制作に専念する道を選んだ。五十の時である。3人の子供も就職し、皆独り立ちしたのも理由の一つである。それまでも勤めの傍ら画を描いてきたが、本格的に取り組みたいとの思いと、このままでは自分がダメになってしまうのではないかという不安が強くあった。毎日が同じ仕事の繰り返しと仕事に没頭できるような環境でない体制下は私にとって耐えられないものだった。
退職したその日から製作に没頭した。技法書片手に基本技法と画材について学んだ。絵具はマツダスーパー絵具をそして筆はナムラの豚毛とセーブル毛、キャンバスは市販のフナオカの膠引きの下地を購入し、上塗りとして炭酸カルシウムと亜鉛華それにスタンドオイル、膠水からなるエマルジョンキャンバスを用いた。このキャンバスは、技法書に基づいて作ったもので、吸い込みは多少あるものの絵肌は陶器のようにしっくりとした美しい仕上がりになる。
手作りキャンバスによってそれまでの市販のキャンバスより表現力が増し、一層製作意欲が掻き立てられた。例えば風景を描いても舗装道路の亀裂面などにも非常にリアルな表現ができた。私は現地制作を基本としている。家屋や木々山や川といった対象物と会話しながら描いた。「これでよいか」と正すと「そうではない」と答えが返る、さらに筆を加えていく、「どうだ」と木々に話しかける「よし」と答えが返ってくる、そこで筆を置く。一枚仕上げる度に達成感が得られ、精神的にも充実した日々を送った。
そして100号の大作に初めて取り組んだ、松本市郊外の鉢伏山から美ヶ原高原をスケッチし、それをF15号のキャンバスに油彩で描いた。夏のころである。その絵をもとに、F100号のキャンバスに描いたが、不慣れなためか遠近感に乏しい平面的な絵になってしまう。専用のアトリエはなく12畳ほどの洋間で描いたからかもしれないが、とにかくどうにか完成した。その絵肌が陶器のようにしっとりと仕上がったのには大いに満足であった。鉢伏山の山頂から同じ高さの美ヶ原を眺めた構図は、眼下に折り重なる山々と丁度蓮華ツツジの盛りの頃が重なり見た目には変化があって面白いと思ったが、完成した絵は緑の色調が強く、視覚で感じたのとは大きな差があった。
印象派の画家たちは、よく霧に包まれた色調で描くといわれる。技法上は白絵具を混ぜグレー調に描くとある。私は油絵の具の特質である重ね塗り(重層法)を多く用い、以前のような混色を避けた。混色すると色が退色し濁るというのが理由である。
まもなくして、伊那市の高台に終の住処として一軒新築した、そして予算内の中で15畳足らずのアトリエを設けた。北側に面した窓は大きくとり、やわらかい光を採り入れた。なによりのご褒美は、真正面に南アルプスの主峰、仙丈ケ岳がどっしりと眺められたことだ。左には甲斐駒ケ岳、鋸岳の連山が、右手の肩越しには北岳、そして間ノ岳、農鳥岳の白根三山が控えている。申し分ないロケーションである。
それからは、何度と仙丈ケ岳をスケッチした。美しい山ほどリアルに描くことは難しい、特になだらかな稜線の捉え方が難しい。そういえば辰野町の郷土美術館に明治期の画家、中川紀元の描いた仙丈ケ岳を見たが、なだらかで大きくおおまかな描き方だった。これほどの画家も全体像を捉えるのに苦労していると感じたが、全体像をどう捉えるかが難しい、細部にこだわり写真のように丁寧に描こうとすればするほど実際の姿から遠のいてしまう。細部に拘らず全体をとらえる描き方が正しい一歩である。
絵は上手くなっても良くはならない、と故洲の内徹は述べていたが、それはあたかも写真のように克明に描くことができても、決して絵は良くはならないということだ。その理由のひとつが、時が止まってしまうということではなかろうか。時が止まってしまうと、見ていてもすぐに飽きがきてしまう。技術的に上手くなくても、時が止まらない、刻々と変化していく絵が良い絵の条件であり、そこに写真とは違った味がある。その味こそ、描き手の人間性から湧き出てくるもので、それ故に人間として成長し、人格を高めていくことが肝要となる。