絵は誰のために描く

絵は誰のために描く、当然自分のために描くのであるが、必ずしもそうではないと取れる人間たちもいる。見せる為に描くのである。この見せる為に描くという行為を私は最近まで軽蔑していた。それは、自分の画力を主張する軽率な行為とみていた。私には「俺は絵を描く人間」という絵に対する特別な感情が強く、それだけで他とは違う人間のように誇りを持っていたから尚更だった。

絵を単なる余技や遊びではなく、自分自身の内面の表現という特別な思いが余計に人前に晒すことに臆病でいた。作品を世に問うことは決して考えられるような不純なことばかりではない、と須田国太郎に個展を勧めた日本画家神坂松涛の言葉に、画を見せることへの不純さの指摘もある。さらに画は見られるためのものであり、その機会を与えるのは画家として当然である、と述べている。

「絵を人に見てもらうのは、画家として当然の義務である」の言葉にあるように、画家という専門職にあってこそ人前に出すならそれはそれでよい。しかしこの言葉の意味はそうとばかり素直に受け取ってはならない、見せるということへの不純さを指摘している点も見逃してはならない。

若いころ、同僚のK君が油絵をどこどこの職場に飾ってあるという噂が耳に入った。そしてかなり評判のよい噂である。私はなんとも空しいような気分になったが、彼の絵を見て上手い絵だと感じた、私なんかよりかなり熟達しているようにも思えた。だが、手放しで彼の絵を褒めることができなかった。なぜか、どうしてもそこには見せるという不純な彼の行為を見たからだ。しかし、その時本当に彼が見せるという気取った気持ちでいたのかそれは判らない。

だが、それから私の彼を見る目が変わっていった、そしてそれまで純粋な人間とみていたことが誤りだと気付き、次第に彼を遠ざけるようになっていった。なぜそうした行動をとったのか、おそらくその時、そうした彼の行動を軽率な人間として嫌ったのだろう。その彼がその後どうしているのか判らない、画家として身を立てていったのか、単なる趣味の範疇で日曜画家のようにして過ごしているのか。

新潮社発行の気まぐれ美術館の中で故洲の内徹氏は、人間不在と題して、6人の若い画家たちを操り人形に見立て批評している。彼の意志でなくあたかも操り人形のように、見せるという行為が身についてしまったのか、絵を描けば個展を開く、個展のために絵を描く、そこに人間不在のメカニズムに疑問を投げかけている。


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