美術部時代 |
高校の美術部に属していたのが、半年足らず、なのになぜ美術部のことを取り上げたかというと、私にとって忘れ難いことがあったからだ。高校2年になった頃か、それまで部活動に興味のなかった私は、同じクラスで美術クラブにいた友人に勧められ入部した。夏休み前の部室で「夏休み中に展覧会出品用の作品を2枚仕上げるように」と部長から話があった。それから、キャンバスの作り方などを教わった。最後に私たち新入部員に12色入りの油絵の具一箱と筆一本が渡された。
夏休みに入りキャンバスをどうするか考えたが、一回の説明ではよくわからなかったのと面倒くささもあって、近くの製材所でベニヤ板を10号キャンバスのサイズに切ってもらい、それに描くことにした。初めての油絵の具の匂いとテレピンの匂いに感動した。中学までは不透明水彩絵具で描いていたが、私のは油絵のように何回も塗り重ねたり、色を混合して描いてきた。そのため先生からはいつも「最初は明るくて良かったが暗くなってしまった」と注意のような助言を頂いていた。
そのためか、私には水彩でなく油絵の具の方が向いていると思っていた。早速庭に咲いている真っ赤なカンナの花を中心にベニヤ板に向けて絵具を塗っていった。ベニヤ板はなにも施していないためか吸い込みが強くテレピンに溶かした絵具が思うように発色しない。それがどうしてか分からなかったので、構わず上から絵具を思いっきり塗りたくっていった。そのため部からもらった絵具一箱では足らず、学校に出向き部長に絵具をほしいと頼んだ。部長は怪訝そうにどうして無くなってしまったのか判らないといった顔で、渋々一箱与えてくれた。
ベニヤ板にカンナの赤がはっきりと燃えるような画が完成した。そして、夏休みが終わったある日美術部に画を提出した。それから、半月ほどたって、展覧会が始まった。しかし私の画はどこにも展示されていない、どうしたものかと部長に尋ねると「お前の画に合う額がなかった・・・あの絵のために絵具二箱も使ったのか・・・お前の画は・・会の誰それの真似だ・・」と答えた。
確かにキャンバスがベニヤ板では合う額などない、しかし、部長の一言で退部を決めた。展示場の仲間の画は、どれもうすっぺらな絵ばかりで、山は緑、空は青の類の絵が展示されていた。そこには何も魅力を感じなかった。
とにかく一生懸命描いた絵だったから、絵を返してくれと頼み新聞紙に包んで自宅に帰る途中松本駅の定期券売り場で、売り場の駅員が「それはなんだと」と聞いてきた、油絵だと答えると見せてみろというので、新聞紙の包みから取り出し駅員に渡した。するとじっと絵を見ていた彼は「この絵を俺にくれないか」といってきた。大事な絵であったが彼の頼みに「いいよ」と差し出した。
その後カンナの画はどうなったか分からない。一人の駅員に渡したその絵は、松本駅構内のどこかに飾ってあるのか、はたまた駅員の家に眠っているのか。カンナの画は油絵の具で描いた最初の絵であり、五十年余経った今でも懐かしく思い出される絵である。カンナの絵こそ、私の絵との出会いであり、出発点になった。