便利さ追求社会が崩壊

正に研究者の目は便利さを追求している、そのことが人間を亡ぼし社会を崩壊することに気付いていない。最たるものは自動運転システムだろう、確かに便利ではあるが一歩間違えば人命を落とす事故になりまたは犯罪のためのアリバイ工作に使われ瞬く間に社会の悪が蜂起するだろう。さらに生成AIはその犯罪への手助けとなりまた人間が考えるという思考力の低下につながりやがて能力の低下とモラルの低下が戦争を勃発させかねない。

研究開発は社会にとって必要であることは誰もが認める。だが行き過ぎた開発は社会崩壊を招くと指摘するのである。そこで問題は研究者たちにはどこまでが研究の範囲であるべきか知っておく必要がある。だがこれも開発という甘美な味のため一点に止まることはできない。

こうした問題を誰がコントロールできるのか、資本主義国家の宿命で開発と儲け主義が両立しているからであって、この二つを分断するには教育と資本主義の考えを原点に戻しいかにして足りる精神を植え付けるかである。

共産主義ならと思うがロシアを見ても研究開発は国家の中軸において促進させてきた。核戦争という言葉も古いがその核戦争もどきの戦争が開発戦争であろう。便利さと合理性を兼ね添えた商品は誰の目にも魅力的に映る。ここが問題なのである、この目を見識という目に変えて判断する教育こそ大切と指摘するのである。

一昔前の小型カメラの功罪、犯罪を防ぐためのカメラが逆に犯罪を促す道具になってしまう、いつのまにか部屋の中に隠しこまれたカメラが一部始終を犯人に情報を与えるといった問題もある。

今や主要道路にカメラは据えられている、知らないうちに自分が何をしたかも他人に知れてしまう、この場合は警察関係者であるが、それでも警察とはいえ職務を離れればただの人一般人である。研究開発の果ては何処にあるか、人間の業欲というものを無くさない限り果てしなく続くだろう。その先は人間が人間でなくロボット化していく誠に末恐ろしい限りである。


2025.2

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