確証ない証拠と有罪判決の是非

長野地裁は本日元県議丸山大輔被告に懲役19年の実刑判決を下した。この事件は確固たる証拠もないまま間接的証拠所謂借金、不倫などなどまた第三者が犯人と立証できるものが見当たらないといった証拠固めの上逮捕起訴に踏み切った。もし仮に本人でなかったなら検察側はどうする気か申し訳ありませんではすまされまい。このところ冤罪裁判が多くみられるように今回のような立証のための証拠固めで犯人に仕立て上げるといった判決ともとれる。

被告は一貫して犯行を否定してきた、長野議員会館から塩尻市の自宅まで国道19号を使っても80キロは優に超える距離である。国道を避け山際の道を使ったとすれば余程運転慣れの人物でも片道2時間以上は要する。夜中とはいえ飲酒運転の危険もあり猛スピードで走ることはあり得ない。

さらに間接的証拠と位置付けた車が被告所有の車と同型であり犯行現場のシューズの足跡が被告本人のものと一致したなど比較的信頼されうる証拠だろうがその立証はされていない。また第三者の犯行は不可能と断定しているがその理由は何かはっきりといえる確証の上に立ってのことか疑問である。

妻を殺害する間接的理由として借金の問題、不倫相手が浮上するがそのための金の工面が殺害するための動機となりうるのか。もし仮にその件で妻からなじられ離婚話など被告にプレッシャーとして重くのしかかっていたとしても何も翌日は県議会で質問をするという重要な立場である前日ではなく他に機会はあろう。県議に当選したからには人格的にもそれなりの人物であることは想像できる。

その彼がこうした大罪を犯すことができるか否か、検察当局はどう受け止めている。捜査から証拠固めと捜査当局のイメージから立証まで無理な理由付けから起訴へと踏み切ったと思われる。これが冤罪の一歩である。事件とは関係ないが、ある取調室で「なめるんじゃない検察は命をかけてやっているのだ」と怒声をあげた映像が某テレビから流されたが、まさにこれが検察の一部の顔なら証拠固めのためには手段を選ばないという権力の横行といえる行為である。

懲役19年の判決を改めて重く見る、弁護側の言う無罪という証言と照らし合わせればせめて執行猶予付きに留めるべきではなかったかである。人が人を裁く裁判は「長き裁判に正義なし」といわれてきた。今回の裁判も被告は当然控訴するだろう。地裁から高裁へとそして最高裁へこうして審議の積み重ねは当該裁判官、検事弁護側の責任逃れを増長させる悪法のひとつである。

何れにしてもはっきりとした証拠を掴むまでは逮捕しないというのが本道である。ところがその証拠たるものが掴めないから間接的証拠として憶測で判断し取り調べ白状させるといった手口が冤罪を起こしてきた。これは検察側の捜査員の資質に大きくかかわり有能な捜査員とそうでない捜査員に大きな違いが生じるのも事実だろう。有能な捜査員なら犯罪の一部始終を的確に観察し憶測でない確かな証拠を探し逮捕に至るがそうでない捜査員は観察力が劣り誤った判断も当人は気づかず逮捕に踏み切る。この差をどうするかが冤罪を防ぐ決め手となる。

然らば有能な捜査員にするためにどうする、教育であり捜査員の能力の有無を判断できる審判官が必要であえる。しかし現実には警察官になるために面接や論文記述試験では今日難しい問題である。有能な人材にはそれ相当の報酬も見込まなくてはならないといった問題もある。

しかし誤った判断から一生を棒に振ってしまうような捜査は改めなくてはならない。元県議も逮捕という事実から議員を罷免されてしまった。現実的には本人の証言を待つほかあるまい、やっていないという証言の虚偽か正しいかを判断する。それができないなら逮捕などしてはなるまい。

この問題は非常に大きく国会の場で司法に首を突っ込んでも討議すべき問題だ。現行の司法制度に欠陥があるから冤罪や誤った判決のため一生を棒に振るケースも生まれる。「疑わしきは罰せず」の格言を胸に刻んで欲しい。現行の裁判は主役不在の検察と弁護士の争議にしか見えない。互いの意地の張り合いが長期化へとなっていく。実証が立たないまま逮捕へと導く捜査は許されるものではない。

今回の判決は被告の計画性を重く見ているが、議員会館でのアリバイ工作、犯行現場の足跡の工作と検察側は指摘してきた。だが被告が飲み会の席を立ってアリバイ工作をするならばパソコンに電源を入れるだけで留まるだろうか、むしろパソコンを操作し質問文書の作成を30分くらいで行うことはできる筈だ。ところがその痕跡はないとしているからなおさらアリバイ工作などなく、そのまま本人は自室で就寝したと受け取る方が自然であろう。さらに飲食の後80キロ余の距離を自動車で運転してまで犯行に及ぶとは到底想像のできないことだ。

これまでにも一審有罪、二審無罪の繰り返しは一般人からみて理解に苦しむ判定である。無罪が有罪に寝返る理由は何か有罪が無罪になりうるのは何か、共通しているところは証拠の信ぴょう性となろう。それゆえに証拠という確証が重要である。検察側と弁護側の反論ゲームではない筈だ、被告人不在の裁判こそ改めなくてはなるまい。制度の見直しの必要性がここにある。


2024.12

戻る