性差の区別と性教育 元検事正事件 |
6年前、元検事正が部下への性的暴行を起こし起訴されたが一転無罪を主張した。詳細はわからないがこの手の事件は他にもあることは想像できる。女性の立場からどうしようもなかったといった言葉は非常に重い。腕力にかけて劣る女性だからである。
問題は被告が無罪を主張したのは一方的でなく合意があったからと述べている点だ。これなど男性の身勝手な考えと女性は受け取るだろう。男女の仲のこうした精神的なギャップはいつの世も発生し暴行罪か否かが問われるのである。
性行為は互いの愛情の表れと考えるのが良識だが世の中はそううまくは割り切れない。男女の仲というものは当事者以外はわからないというのが結論だ。この事件ではその当事者が被害届を提出した点を考慮しなくてはならない。だがそれがでっち上げだと反論されればどうなるのか、人間性が重要になる。
男女の仲は最終的に相手の体を求める、同意云々など問題ではなく女性を強引に性交へと陥れる。これは人間の欲望がなす業であってその時の雰囲気が大きく左右するだろう。女性は酔って抵抗もできない状態と伝えている。尚更男の欲望を掻き立てる何物でもない、女性のなまめかしさが一層表れ男を猛獣化してしまう。
古来女性には男性と区別した躾が生まれた。夜遅く一人歩きはいけない、みだらに酒など飲んではいけない。等々娘に対して教育を行ってきたものだ。ところが昨今女性の活躍社会への進出と女性を男性と同等な立場で扱う社会になった。
この点が問題ではないか、教育の過ちである。所詮は男性と女性は性差を重視し区別して扱うのが社会にとっても女性本人にとってもよいことであろう。一方的に男性を責めるのではなく女性側の振る舞いにも留意し慎むべきは慎むといった古来からの教えを浸透させるべきである。「女性は女性らしく」「男は男らしく」に反論が生まれる社会も反省が必要だ。
小学6年だった、同級生の近所の女の子を交え縄跳びなど夕暮れまで一緒に遊んでいた。その時「〇〇子。。。に毛が生えているのにいつまで遊んでいる・・・」と近所のばあさまが怒鳴った。その子は余程恥ずかしかったのか顔を赤らめ自宅に駆け込んでいった。その後はその子は誘っても遊びには来なかった・
これが本当の性教育なのだと大きくなってばあさまの怒鳴り声がはっきりと伝わった。今こうした怒鳴るばあさまは少なくなった。中学校でも性教育が取り上げられて久しいが、担当の先生方はこのばあさまの一言をかみしめ教育とは何かを考える必要もある。性差の区別は社会を停滞はさせない、むしろ活気ある社会をつくるだろう。セクハラだと騒ぎ過ぎて男女の会話も途絶え暗い社会となった。これを機会に女性は社交上どう対応すべきか男性は自己の欲望をいかに抑えるかを学んで欲しいものだ・。
2024.11