長き裁判どうなっている袴田事件

半世紀前の袴田事件の決着がつかない、どうなっているのかと誰もが思うだろう。長き裁判に正義なしとはよくいったものでまさしくその通りの展開である。87歳の被告を前に検察と弁護士の綱引き状態が延々と続いてきた。

被告の袴田さんがどう答えるか、「やっていない」と答えればやっていないのである、反対にやっていると答えればやっているのだ。87歳の高齢者が嘘を言う筈がない。ところが両者の綱引きは本人を除外して証拠がどうか捏造したかしないかで意地になって争っている感が強い。

検察にも面子があって捏造していないと言い張るのは当然、いや捏造と反論するのは弁護側、これではいつまでたっても結論は出ない。証拠品にしても数十年の歳月がたち変色や損傷も出てくる。意地の張り合いは非常に両者にとって重大な問題である。もしかりに捏造とはっきりすれば検察側は被告本人ばかりか世間に対して顔向けができない相当の罰をを被る。反対に捏造でなかったとなれば被告は有罪であり弁護側は信頼を裏切ったとしてこれまた世間から非難される。

要するにこの事件は被告本人の自白が重要であることは確かだ。ねつ造問題にしてももし捏造であるなら捏造した人物がどっかにいる。その人物が「捏造した」といえばこれで事件は解決する。ところがこの人物が死亡しているならば真実はわからないままである。

何れにしても被告本人が「やった、やっていない」で解決できる。ねつ造問題もこれにかかわった人物が「捏造ではない、いやねつ造した」と証言すればよいことだ。ただ問題が長期間であり金銭も伴い、おいそれと引き下がることができない泥沼に入ってしまったことは確かだ。

司法制度の悪い面がこの裁判に表れているといってもよい。事件は被害者と加害者の間で決着するのが基本であって、第三者が入ってくるとそれだけ複雑になり決着も付かなくなる。袴田事件は検察、弁護側両者の間に損得絡みの方向へと転じていったといえないか。被告本人がどう答えるか、そこに的を絞った判決が必要である。87歳の被告なら今更虚偽の答えはしないだろう。裁判とは罪状を決めるだけにあらずで、その人間性を正しく導くものでなくてはならない。


2023.121

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