焦点ずれの報道市川猿之助初公判

ずれた報道とは市川猿之助の裁判が始まったというニュースの内容である。猿之助自信は週刊誌に書かれていたセクハラ、パワハラ記事が原因で歌舞伎界に迷惑をかけたくないといった思いが一家心中を計画し実行したと述べている。にもかかわらず猿之助が両親に睡眠薬を飲ませた殺人ほう助の罪で懲役3年の求刑と報じているが、その前に大事なことは週刊誌の記事が事実かどうか、猿之助が事実と認めているか否かが重要なカギではないか。

仮に週刊誌の記事が事実無根ならば自殺ほう助は週刊誌に科せねばならぬだろう、ところがその点に触れることなく猿之助自身の行動と両親の間でのやりとりがどうであったか弁護士を交えての報道に徹していた。

ここがずれた報道と指摘するのである、週刊誌の記事が事実であったかどうかを確認するのが報道のみならず検察側の義務である。検察当局はこの点どう認識しているか明らかにしないまま表面いや側面だけを都合よく報じるのはメディアの仲間としての隠ぺい工作にもなる。

問題は週刊誌の記事が事実であるか事実無根であったか、その前にいいたいのは週刊誌としてこうした記事を掲載することが猿之助氏を含め歌舞伎界という組織に与える影響がどうかと考えたことはないのか、例え事実であったにせよ大きな影響を与えることは避けられまい、かようなことは報道の自由を超えた罪といってもよい。

週刊誌の記事が様々な形で個人や社会に影響を与えてきた、良きにせよ悪しきにせよ困った問題である。今回の様に歌舞伎界の名門一家を自殺にまで追い込むような記事は断じて公表すべきではない、週刊誌側には強く反省を求めるとともにその責任の所在はどうか、テレビメディアからは伝わってこないのは至極残念でありメディアぐるみの隠ぺいはあってはならない。

猿之助氏自身、週刊誌の記事を事実と認めているか否かが今回の事件?の焦点である。そのことに一切触れようとしないテレビ報道はまさにヘイクと指摘されても仕方あるまい。このところメディアからの報道が社会を振り回しすぎる、発言問題などもその最たるものであって、例え国会議員であれ要職にあるものであれ発言の自由は担保されてしかるべきだ。本音を国民にぶつけることこそ要職にあるものの務めである。

氏のセクハラ、パワハラは事実であったか、それが重要である。自殺する動機としてこれ以上のものはあるまい。週刊誌及び関係メディアはためになる報道とは何かを考える機会にしてもらいたい。ついでにいうなら親子の間(近親者)の事件事故は他人がどうとかこうとか中傷すべき問題ではない、同様な事件は森鴎外の著書「高瀬舟」が問いかけている、近親者のみが知る事件である。


2023.10

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