日本でない日本を危惧する

オリンピックアジア大会とスポーツの大会が開催されてきた、だが本当に喜び合えたかというとそうでもない何かがあった。陸上、バスケット、ラグビーに日本民族でない人間がいることだ、これを差別という人間には言わせておけばよいが本当にそうかと日本国民の本音を確かめたい。理屈ではわかっていても心の中では常に葛藤しやはり一種の違和感があって真から喜ぶことができない。

このところその傾向が強くなり日本という国がいつの日か消滅してしまうのではないかと危惧するのである。これはスポーツに限らずすべてに共通した悩みである。街を歩きすれ違った異人種に何かおかしい普通でない気持ちに似て生活から文化芸術にいたるまでグローバル化ということへの反発を感じるのである。東の国日本が西側と呼ばれるのにも反論し、日本を大事にするとはどういうことか改めて問いたいものだ。

学校でも人種差別に始まり男女の性差をなくす教育も浸透してきたようだ。男の子は男らしく女は女の子らしくを否定する教育にも反発せざるを得ない。男という性を受けたならばその宿命に従って生きていくのが生きとし生きるものの運命と思わなくてはなるまい。これが生を与えた両親への感謝の証だ。親に孝行という言葉も禁句のようになった、自分がよければよいといった誤った個人主義の表れだと思う。

アメリカに留学しまたアメリカの生活習慣を日本に持ち込み考え方も合理的でかつ個人的な考えに移行し今日の日本はつくられた。夫婦別姓にはじまり男女格差、セクハラといった一部には都合がよくても全体で考えればどうも誤った考えが社会に広まった。

日本でない日本はここから始まった、自由という都合の良い言葉に乗せられ国際結婚も進み特に人種がまったく違ったもの同士の結婚が進み、スポーツの世界に明確に表れた。体力的に劣る日本人に外人の能力体力を取り入れようとする独りよがりの考えから起こったものだろう。

日本という国はどうなる、アメリカの操り人形と呼ばれないためにもここで杭を打ち込む姿勢が政治スポーツの世界にきている。移民の国アメリカにはアメリカの歴史がある。それを真に受けてそのまま日本に持ち込むことがどれだけ危険であり誤ったことかをいいたい。


2023.10

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