軽井沢バス転落事故、判決は正当か

7年前に起きた軽井沢碓氷峠のバス転落事故に対し長野地裁はバス会社側に禁固3〜4年の実刑判決を下した。その理由は会社側に事故の予見ができたとしての判決であるが果たしてそこまで一人間に対して予見の義務を追及するのは疑問である。バス業界の慣習や経営状態観光ブーム最中の社会状況からみれば余りにも偏った判決のように受け取れた。

2名の運転手が死亡ということもこの問題を混迷なものにしたが、例えば運転手が無免許であったとするならば会社側の過失は明らかでそれを承知で運行させたなら間接的には業務上過失致死罪が適用されてもおかしくはない。しかし運転免許はあった、免許のあるものを運行させるのは常識でありその技術がどうかというのは免許が示している、それ以上の技術を望むなら専門分野の判断である。つまり自動車学校での教習の程度にまで発展する。

薬物使用飲酒の有無、病気の有無等に問題が無くば誰が管理者であっても運行を許可するであろう。こうしたことから考えればあまりにも被害者側に立った判断ではなかったかである。

この事故は選ぶ側の問題にも触れなくてはならない、安い運賃日帰りツアーというj強行スケジュールがニーズに合致したからこそ選んだのである。安かろう悪かろうは社会の常識、バス運行ばかりかすべてにおいていえることで、安いというのは常にリスクを伴うものだという判断も必要である。さらに運転手の技術云々というのは考えにくいが強行なスケジュールには無理も伴うであろう。

こうしたバス事故は20年ほど前の規制緩和の煽りが、バス業界への経営圧迫を加速させ無理なスケジュールへと繋がり居眠り運転による事故が多くみられた。遠因と見れば規制緩和という政治的措置が齎した事故ともいえる。責任はどこにだれにと問う前にこうした大きな背景も見逃してはならない。昨今御岳山噴火事故でも、責任の矛先を個人の責任に触れず県や管理団体等他に振り向ける傾向が強くなった。活火山ならば噴火がいつ起きても不思議でない、山に登るにはそれなりのリスクがあり事前の準備や心構えが必要である。

このように自己の責任ということには触れず矛先を他に転嫁する裁判が多くなったことも社会的に見れば問題である。常識あるいは良識という考えがあまりにも無視された判決が多い、長き裁判に正義なし(正解なし)といわれる所以でもある、自己に厳しく責任を他に転嫁しないという強い人間はこれからの社会には必要である。ロボット化していく人間、机上論だけの人間、自分というものを見失っている人間たちがあまりにも多い、反省させられる問題である。。


2022.6

戻る