自然界の土地や産物は誰のものか

ふと思うことは、この自然界にある土地や産物はいったい誰のものか、生まれてきたその時から親の残した土地や財産でのうのうと成長し、大学はおろか大学院とその能力とは必ずしも比例しないであろう者が卒業し、産業界や政治界においてとんとん拍子で膨大な報酬を受ける。方や生まれた時から親の財産はおろか借金を抱え地獄のような生活の中で中卒どまりで社会に出ていく者、就職しても一般的な企業なら係長どまりで終わる。必然的に報酬は学卒の半分以下となる。

この2極化こそ我々は真剣に考え論じ合っていくべきではないか。生まれた子供に何の責任があろうか、親に責任があるのかと説いても親にも責任はない。財産を残す親も残せない親も一代限りではないからだ。連綿とこうしたことを見逃してきた人間の狡さ狡猾さがどこかにあるからではないか。古代、中世、近世と歴史は同じ過ちを繰り返してきたのである。

例えば江戸時代に遡ってみれば時の権力者は士農工商の身分制度を確立し不平や不満をその制度の下でかわすといった姑息な考えを押し付けたといってよい、武士には学問をすすめ農民には学問は不要とし批判するための知識を与えなかった。

現在においては学問の自由から誰でもが学べる権利を持っている。だが法律に定めてもそれは空論であり実際にはいま述べたように大学まで行けず中卒や高卒どまりの者たちが多数いることに疑問を呈さなくてはなるまい。日常の学力の判定もペーパー試験を重視している点も大いに問題である。人の能力技量はペーパー試験一辺倒では計り知れないということだ。

だが、人の能力を図るに最も容易な方法として今日まで続いてきた。能力はあるが経済的に無理という時代があまりにも長く続いた。戦後人権が尊重され誰もがその能力を発揮できる場がもうけられたといっても、中身は有名無実な現実であった。これを解決するためには政治による改革が必要だが、もとより我々一般人も考えなくてはならない。政府の給付金支給問題など手ぬるいことだ。学費無償案も人によっては家族を養うために働きに出て稼がなくてはならない。

また人によっては学校教育に合わない生徒もいる。工夫や工作はできても国語数学英語の画一的な知識の詰め込みと試験には性の合わない者もいる、当然高校大学への道は開けない。今の学校教育の在り方ではすべての子供に平等な教育を提供できないという格差が生じている。

中卒だと今の学歴社会では手に職をつけ独立しない限り会社ではせいぜい係長どまりとなるだろう、然らば収入もそれ相当の収入しか得ることはないということだ。大卒までなら最低係長以上果ては社長待遇までの処遇が待っている、収入も億単位の年収も夢ではない、ここにも大きな格差が生じる。

そもそも格差はなぜ生じるのか、何も今に始まったことではない。人類が創生したその時点から力の強いものが上に立つという自然の掟が権力者を生みそしてそこに使える者たちが生きていくために組織を固めそれぞれの分担を決め権力者の決めたルールに従って生活する。権力者は配下の者の労働によって働かずとも食を満たし栄華を満喫する。組織下においてはそれぞれの働きによって位が与えられそれ相当の生活を楽しむことができる社会を構築していった。

自然界の土地産物は権力者の下で位に応じて配分された。不満を持つものは排除されていく。

過日麻生太郎氏の温暖化発言がテレビ放映され政府はその対応に躍起になっていると伝えてきたが、そうしたことより従来から度々出る発言、富裕層、低所得者層、貧困という発言に気配りすべきではないかと思う。これらのゴロはすべて格差社会の象徴的な言葉であろう。先般も18歳以下の家庭を対象とする10万円給付の審議の中で、茂木財務相が公明党案一律の提案に難色を示し、富裕層では必要ないではないか云々とコメントしていた。

普通にとれば何の問題もない言葉であるが、大臣という立場での発言と取るとすでに格差社会を是認したうえでの発言と取れなくもない。政治とは何か今政府の行う政治とは何かと考えれば貧困層をなくし格差社会を是正していく、これが政治の根幹である。にもかかわらず富裕層だ貧困層と差別用語を使ってのコメントは極力差し控えるのが政治家の道である。

社会はそれに構わず、富裕層貧困層を区別し、行政もそれに倣った支援策を実行してきた。トップたる首相はじめ政府政治家がこうした言葉を安易に使い、区別した支援策を打ち出してきたからである。

貧困に苦しむ、誰も好き好んで貧困に陥っているわけでもない、まして富裕層と呼ばれる人間たちも己一人の力で富裕になったわけでもない。人それぞれ訳がって所得の格差が生じたまでだ。その最たる原因が政治による統制が利かなくなってしまったことに気づかなくてはなるまい。生まれながらにして豊かな環境に育ったもの、貧しい環境に育ったもの、この差別は誰の責任か、一度は真剣に考える問題である。

海外では戦争や飢饉によって貧富の差が生じているが、わが日本にあってはここ数十年来飢饉という状態は皆無といってよい。だが、貧富の差は年々大きくなってきた。この原因こそ政治にあると指摘するのだ。我が国の立場を考えれば明確になってくる、それは敗戦国からの脱皮ができず相変わらずアメリカの傘下に置かれ、意のままにならない現実が70数年も続いてきたからだ。

非常任理事国でありながらアメリカに次ぐ支援金の拠出、海外支援といくら稼いでも借金は増えていく中、政府は政治家は企業優先政策に乗り出し法人税収をいかに多くするかに奔放してきたからである。企業が活発になればサラリーマン世帯は豊かになるはずが、活発になればなるほど設備投資に入れ込まなくてはならないというジレンマの連続が、給与の凍結や社会保険料の値上げ等々一向に家計は伸び悩んできた。

サラリーマンばかりかその影響は小規模事業者、小売業界にも波及し、大儲けしているのは大企業の役員たちばかりとなっている。年金にしても制度の悪さが現役時代の収入をベースとした支給額のためここにも大きな格差が生じている。老後の保障はどうなっている、夫婦2人で年間500万円以上の世帯もあれば、100万円に満たない世帯もごまんといるだろう。この格差ひとつとっても企業優先政治の一端が表れているということだ。

企業優先政治の考え方は否定しないがその扱い方に問題がある。誰もかれも社長やトップになれれば心配ない、だが、現実はそうはいくまい全員が社長になってしまうと誰が下働きのような仕事するのだとういう問題がある。ここに大きな制度の過ち考え方の過ちがあった。すべて社長の待遇で、なすべき仕事の分担をはっきりさせておけばなにも問題はない。端的にいうならば全員社長であり全員従業員であるこれが理想的な社会であるといいたい。

仕事の分担等はその会社会社独自で決めておけばよい。渉外担当、経理担当、人事担当・・・・・云々と働きやすく動きよい体制を作っていくことだ。ところが今の制度は、社長は年功や実績、時には世襲によって選ばれてきた。ここに問題があったのである。出世という言葉がまさにこれに当たる。新入社員から年々上の役に立とうとする。上に上がれば報酬も上がるという制度だ。

人をかき分け自分だけでもという人間の欲を巧みに引き出し企業は業績アップに努めてきた。これが格差社会の一歩であろう。国を豊かにするにはどうする、それぞれの産業を豊かにする、そのための手段が立身出世主義とも相まって今日を迎えた。この根本をなくさない限り真の平等社会は生まれない。

もう一度考えよう、自然界が生んだ土地や産物はいったい誰のものか、限られた人間が独占できるものではないことを・・・


2021.11