テレビに振り回された東京オリンピック |
コロナ感染の拡大する中、オリンピックの開催の是非が問われてきたが、予定通りの開催となった。その裏にはテレビメディアの影響が強く感じられる、またIOCも放映権料の見返りもあって決断をあいまいにし日本政府とJOCの成り行き任せのところもあった。テレビの力というものは、正しい方向に向けられれば社会のためにこれほど役立つものはない、だが一歩誤るとこれほど社会にとって始末に負えないものもない。
「テレビは人間をだめにする」という数十年前の映画のセリフが蘇る。IOC関係者は「アスリートの力が社会に勇気を与える」と傲慢とも受け取れる発言をバックに開催に踏み切った。本当にスポーツの力はそれほどまでに大きいのか、スポーツに携わる者にとっては大きいかもしれないがそうでない者のほうが圧倒的に多い、その者たちはスポーツの力を信じてはいない。ここに昨今のオリンピックの過ちがある。
オリンピックの精神はどこ吹く風に商業主義が蔓延り、経済第一の産業化してしまった。その原因の一つがテレビを介してのスポンサーたちの競争があるからだ。日程にしても数十年前の東京オリンピックは十月十日であった。スポーツの秋にふさわしい季節である。ところがこれもいつの間にか七月の真夏に変えられた。その理由のひとつがアメリカのテレビ界の御家事情に大きく左右されてきたということだ。
世界的コロナ過で今回の大会も計画通り進めてしまった。これもIOCなど関係者の懐勘定を見据えてのことと思われる。こうした根本からオリンピックの考え方が変えられてしまった。しかし世界の子供たちばかりか殆どの人々はオリンピックはスポーツの祭典と協力を惜しまず今日を迎えた。
コロナ過にあって死んでいくもの残された家族、そして死への恐怖にされされている者のことを考えたことはないのかと、スポーツの力を過信しこうした発言をする人間たちこそ恐ろしい、戦後教育の過ちというべきか、スポーツ大国となってきた日本をはじめアメリカ民族の意識はスポーツの力を余りにも過信しすぎてこなかったかを問いたい。
東京都は3千人に迫る感染者となった、専門家の予言通りとなってきたがその専門家の意見を軽視しオリンピック開催を決行した。仮にであるオリンピックが直接の原因でなくてもこのまま感染拡大は収まらず医療界の崩壊と社会の崩壊に拍車をかけていったとすればだれの責任か、と問う必要はない。なぜなら責任は全世界の人類が招いた結果であるからだ。がそう割り切れるのには時間が必要だ。頭でわかっていてもである。
人間の流れを大きく左右するのはテレビなどメディアの情報が一番に挙げられる。連日放映されているアスリートの戦い、確かに見ていればそれは楽しい、しかしその反面コロナに感染し死んでいくもの、苦しんでいる家族、生活が困窮してきた家族などなどコロナの影響をまともに受けている人々のことを思うとテレビのスイッチを切る。同じ社会に生を受けてきた者たちがコロナのため苦しんでいる、方やテレビはアスリートの喜びの声と歓喜の瞬間をとらえた映像を送り続けている。
こうした二者背反の社会があってよいものか、例えば十人の中で九人が喜んでもその中の一人でも悲しみ苦しむ人間がいるとしたらどうすべきか、一人の苦しんでいるものに手を差し伸べるのが人間ではないのか。儲け主義社会の悪霊たちがのさばり社会を駆逐していく。オリンピックは人類の祭典である、しかし今回のオリンピックは無観客をいいことにアスリートのための競技会に変えてしまった。
それでもアスリートの中にはオリンピックの開催を疑問視する発言もあった。正しいのである、その正しい考えもテレビなどメディアによって変えられていくのである。いつのまにかスポーツで苦しんでいる人々を救ってやろう・・・傲慢な考えになってしまった。スポーツの喜びは競技に参加して初めて味わえるものである、当然アスリートに関係した家族や関係者なら喜びを分かち合えるだろう。
しかしその他多くの人間は一時の喜びを味わうがそれはアスリートたちとは比較にならない小さなものである。その小さなものでコロナで苦しんでいる者たちを救えると考えているのか。スポーツ天国日本、誤ったスポーツ礼賛主義、その原因の一つとなってきたのがテレビメディアの影響であることは疑いなしである。2020東京オリンピック開会式、史上まれにみる最低の開会式であったことを付け加えておく。
2021.7