権力の誇示、花見の会

国会で共産党委員が質問しなければ殆どの国民は総理主催の花見の会など知らなかったであろう。現実はこうなのである、奢れる自民党政権はこれをよいことに何十年も慣例として続けてきた。民主党政権下でも行ったということに自民党以上に驚いた。時の総理大臣の威厳を世に知らしめるための花見の会であることは歴然としている。天皇招待の園遊会もしかりだが、この時代にいつまでも線引きをして特定の国民を招待するのは差別化も甚だしい権力の象徴である。

国民はみな平等である、こうした不浄とも思われる会に税金をつぎ込んでまで行うとはまさに国家権力を独り占めにした君主国家と何ら変わらない。このような行為をメディアをはじめ我々がほっといたのも表向きは平和な時代だからである。テレビ画面に映る安倍晋三の顔はほころび時の権力者さながらに招待客に手を挙げて答えるさまは何様なのかと怒鳴りたい気持であった。

首相とは何者だと考えているのか。選挙となればへいこらへいこら国民の前で頭を下げ、首相の地位に就くと今度は上から目線で権力者に変身し己の目に叶った人物を招待して権力を誇示する。こうしたど阿呆な人物を国民は今まで何も知らず黙認してきたといってよい。今の時代を考えろ!吉田茂の時代とは時代背景が違うのである、勢いに任せ選挙を意識し権力を翳し己の力を国民の前に示す。

これこそ時代錯誤も甚だしい行いである、今は平和な時代で一人の権力者など不要な時代である。皆が平等で幸せな暮らしを支えていくそれが総理大臣という国民のリーダたる者の行いであろう。君主のような奢り昂ぶりを安倍晋三に感じてならない、独裁者の顔である。戦後民主主義国家として歩んできた政党政治の歪みが今表れているといってよいだろう。

政党政治の負の部分が表れてきた、政党という組織ぐるみの政治ほど時に危険なものはない。これからの時代は政治家にふさわしい人物を個として選び投票する時代である。その中から選ばれた人物が政治の中核となって国をリードしていく。これが正しい民主政治の在り方である。国のトップも国民一人一人が選ぶということである。政党という組織に庇護され政治家としてふさわしくない人物がリーダにつくことがどれ程わが国にとって損失かは明らかだ。


突如来年の花見の会は中止と発表された。これも国民の批判を交わす姑息な手段ともとれるが、批判を受け改めて思い直したのかは分からない。それほど今の政府にしっかりした人物がいないということだ。芯のある政治家が一人もいないということだ。これからは政権という権力、総理という権限を誇示するような振る舞いは慎まなくてはならない。国民のためにならない花見の会ではなく国民のためになる、例えば災害被災地への救援者を総理自らの名前で集め復興支援に向かわせる。これこそ本物の政治家ではないか。限られた人物を招き花見遊山とは言語道断である。安倍晋三に猛省を求める。

2019.11

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