本音でもの言える社会こそ大切 |
政治家の資質の問題がクローズアップされている、発言問題である。過日桜田オリンピック担当大臣が「復興より.…議員の当選が大事だ」とか、パーティの席上での発言、だが考えてみれば思わず飛び出した言葉であって、目くじらを立てるほどの問題ではない。このところ麻生大臣はじめ閣僚を含め政治家の発言が問題視されてきた。果たして国民はどう捉えてきたか。
それが被災地等の関係者に対してメディア側から意見を求められれば、その質問の内容にもよるが、大方の人は「とんでもない発言だ、被災者を軽視した発言で許されない」と怒りの答えが返ってくる。これも当然なことだ。言葉の前後の成り行き等を無視し側面を捉えて報道されれば誤った誤解を生むこともある。
発言の自由、報道の自由と己の立場に立てばこうした宝刀を翳すメディアたち、しからば国会議員と謂えども発言は自由ではないのか、たとえ誤解を生む発言であったにせよ、と言いたいのだ。誤解されたらそれを正せばよいことでなにも辞任だ撤回だと事を荒立てるほどの問題ではない。平成の時代発言等で議員の資質が問われてきたが、それにも増してテレビメディアの取材姿勢こそ問われなくてはならない。
テレビ朝日の女性記者による取材中のセクハラ問題など最たるものだ。国民の大方は「やらせだ」と捉えている。取材する側に問題ありと非難しているのだ。言葉尻を捉え報じることがどれだけ視聴者側に誤解を与えてきたか考えていただきたい。
また、国民の資質も問う、今回の発言をどう捉えてきたかである。関係者だって数年以上たてばそれほどショックとは受け取らない。テレビメディアは発言の側面だけを捉え全国に放映するからことは面倒になってくる。
東北沖地震直後の天罰だ、といった石原発言も被災地に対しての発言でなくこの天変地異の現象をみて、世界への発信と受け取るのが常識と国民の多数は思っている。それがテレビ等からの情報を受けると妙に意識し、マイルドコントロールされていくから始末が悪い。
「もの言えば唇寂し秋の風」、という句があるがまさに今の世は政治家ばかりか何事かをいうとき本音を露わに発言できないという事である。特に政治家は本音でもの言える政治家になっていただきたい。メディアを恐れ言葉一句一句を選び、気遣いをしている政治家たちを見ると何とも情けない。誤解されたらそれを正せば済むことだ。本音でもの言える社会がどれほど大切なことか、それにブレーキをかけてきたのはメディアたちである。猛省を促す。
2019.4