悪しき時代平成を顧みる(2)

平成j時代は悪夢のような天災の連続であった。「天罰」発言が今になって親身に堪える。地球温暖化現象ばかり呼応するのでなく、その温暖化はなぜ始まったかその理由はいくつもある。第一に今までの後進国が後進国でなくなってきたことを上げる。中国を例えれば一目瞭然だ。グローバルな考えが墓穴を掘ったとしたら恨まれるだろうか。自分だけよければよいといいった利己主義が拙いのは当たりまえのことだが、そうかといってと考える。自然というものを蔑ろに考えてはならない道理がある。

後進国はそれなりに貧しくとも生活をしてきた。そこへ先進諸国は支援という美辞を使い本音は市場拡大を目論んでの儲け策だったのではなかったか。結局オオカミが羊の顔をして後進国を食い物にした結果が異常気象、天災被害を多発させてといいてもよい。反省すべきである。

ドメスティックバイオレンス、セクハラ、パワハラ等々横文字の事件が多かった。その裏には女性の社会進出が世の男性をしてセクハラ、パワハラを誘い出し、また家庭においては経済的理由から離婚再婚が勃発し、子供への八つ当たりが横行した。さらに社会に出れば女性の地位向上と過保護が男性にとって憂さを晴らす場として家庭に持ち込まれるケースもあったであろう。考えてみればすべて政治主導による社会構造の歪みが基になっている。

天災に話を戻す、阪神淡路大震災、中越地震そして東日本大震災、これらも地殻の変動が原因とされてきたがそればかりでもない。神を神と思わず神社仏閣においては観光優先となり神事が見せるための行事となり下げたのが心理的大きな要因のひとつである。例えば諏訪御柱祭など神聖な祭りが観光目当ての外国人やよそ者のため見せる神事に成り下がった、それは神事を行う宮司氏子など主催者の心が神離れをきたし見せるという習慣が身に付き祈り感謝は名ばかりの行いになったといってもよい。天罰とはまさに言いえているではないか、今後関係者は反省しなくてはなるまい。

平成最後の年は児童虐待の問題がクローズアップされた。父親の子供への暴力、なぜこうしたことが起きたのか、家庭内の情緒の不安定さが生み出したといってよい。育児は親が行うものであって保育園、幼稚園に小さい時から任せてきたことも大きな原因となる。親子の絆は育む中において強く結ばれてゆくのである。その育む時間があまりにも少ない結果がこうした児童虐待を生む遠因の一つであることを社会は知るべきだ。待機児童云々という前に母親の子育てを第一に考えなくてはならないという事だ。

天災といえど集中豪雨による土砂災害は、むしろ人災といってもよい。公共工事の縮退を進めてきた自民党政権からこの被害は一層拍車をかけるに至った。治山事業、治水事業など公共工事は何も道路拡張ばかりではない。こうした国を治めていくものはまず水を制さなくてはならないという故事にもあるように政治家たるものはまず自然災害から守るための治山治水を第一に考えなくてはならないといった教訓を残した時代でもある。


2019.4

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