痛ましい少女の死とその家族 |
千葉県野田市で起きた少女の虐待死?の事故は誠に痛ましい。連日テレビラジオで報道されていることが一層その痛ましさが変化して伝わってくるからだが、痛ましいのは10歳の少女ばかりかその父親、そして母親である。法という下での逮捕、一生を棒に振ってしまった家族、この悲劇は何故生まれたのか考えさせられる。その昔柳田国男の遠野物語を思い出した。鬼っ子と呼ばれ虐待される子供、口減らしのために殺される赤子、現代に生きる我々人間には理解できない様々なことが書かれていた。
虐待という言葉もそう遠からずで、これも現代にあって大きくクローズアップされてきたように思われる。昔の国語辞典をみると(金田一京助監修)虐待とは、むごく待遇することとある、子を親がむごく待遇するとはどういうことか意味不明となる。昔はせっかんといった、せっかんとは肉体を苦しめて懲らすこととあった。昔の親は子をせっかんした、懲らしめのためである、それは子を育むための手段と解釈できた。
時代の変化は、人権重視の考えが親も子も同等な立場に置かれ、懲らしめるという育みが薄れ、むごい仕打ちと変わってしまったのだろう。何んともむなしい世の中である。然らば親子の愛情、絆とはどう生まれ結びついていくのか、腹を痛めた子はみな可愛いと母親はいう、だが父親はと考えた。生まれ出た子供との愛情はわが子という強い意識が絆を守り、その後育む中で愛情が芽生えていくのではないかと。このところが性差といえそうだ。
人間は動物である、その動物の世界では、例えば父熊が子を襲い、母熊が子を必死に守るといった映像をみたことがある。人間も同じとは言わない、だが、父親と母親の間にはこうした性差がはっきりとあることは確かのように思える。
その昔、よくある話だが、親の言うことを聞かない、悪行をした子に「夕飯はぬきだ」といって食事を与えないことなど日常茶飯事であった。あるいは懲らしめのため子供を殴るなどの体罰も日常のことであった。今はどうか、なにかあれば児童相談所にかけこむ、かけこめという教えが一般化されたようだが、何も大げさにすることはないように思うのである。いつの時代も親子の愛情、絆は変わらない。その中で暴力行為があろうが虐待があろうがそれはその家庭内のことで済まされなくてはならない、それが人間社会の基本であると言いたいのだ。
親子とは何か、他人とは全く違うということである。このことが良く理解できない人間がいるとしたらその人間こそ問題である。誰もが自分の恥部をさらけ出したい人間など一人もいまい。それが、テレビや新聞がすべてを洗いざらいに出してしまう。いったんさらけ出された恥部は誰の手でも元に戻すことはできない。また、戦後教育の過ちがその中で築かれた人間社会が、親子の愛、絆まで変形させ、今回の事件を引き起こしたように思える。
この親子に何があったのか、亡くなった少女は被害者である、対する父親は加害者である。だが、本当にそう断定してよいのだろうか。父親にしてもたとえ自らの行為でなされたものとしてもその行為は少女あってのことだ。もし少女がいなかったならば・・・そう考えると父親も被害者である。被害者が加害者になり加害者が被害者にと、それは、親子という環境下にあってこそ生まれ出てくるものではなかろうか、
果たして亡くなった少女は父親を恨んでいるだろうか、父親は少女に対してどう償おうとしているのか。こうした事件は、他人がとやかく言えるものでもなく、法の下で裁き切れるものでもない。親子とは、みながみんな愛情に恵まれ絆がしっかりと結びついている親子などむしろまれではないか、親子だからこその憎しみや葛藤、苦しみがある、それが現実であろう。痛ましいのはそうした現実から生まれた事件や事故が広く世間に公開されたことである。
2019.2.5