本物は本物か決裁文書の存在

森友学園の決裁文書改ざん問題、改ざん前の文書は誰が作成し誰が決裁したのか、テレビメディアからは何も伝わってこない、改ざん後の事件としてそのスキャンダル性を暴く内容ばかりである。政治家の名前や安部夫人の名前が抹消されている、ここまではメディアの情報で伝わってきた。だが、決裁を受けた当時の担当者がわざわざ政治家や安部総理夫人の名前まで文書に書き入れ決裁を受けたということが寧ろ常識では考えられない。何故かというとそれらのことは、口頭説明で済むことであって、担当者ならそのことは業務上の知識として十二分に心得ていると思うからである。

本物といわれる決裁文書に政治家の名前が書かれていたとしたら、当時の決裁者迫田理財局長なら不味いと判断し書き直しを命じるであろうが・・・。ここにも何か解せない仕組まれた工作が感じてならない。国会での証人喚問は、当時の真相を知る迫田氏本人に行うのが当然のことであって、その後の責任ばかりを追及してきた国会も甚だ理解しにくい、これまた不思議なことである。

改ざん前の本物文書は誰が作り誰が決裁したのか、当時どういった状況で作成されたか、寧ろ何故政治家や総理夫人の名前が決裁文書に必要だったのか、その点に踏み込んだ調査が必要であろう。米を語って稲を語らない類の論争では森友学園の不祥事は解決しない。

このところこうしたメディアの情報が先行しそれを追いかける国会議員を見るにつけ不思議な世界と思う。財務省のセクハラ問題で辞任した福田氏然り、被害者であるテレビ朝日の女性記者の録音、さらに上司の対応、セクハラ行為を知った時点で何故その対策を講じなかったか。

加計学園問題、県職員のメモ書きが総理の関与云々の材料となった、メモは速記者のような専門家でない一職員の走り書きであろう、聴きとり方によって三者三様である。それを本物として追及する野党議員も不思議な行動である。

さらに日大アメフト事件、命令に従ったという本人の証言、しかし命令はしていないと拒否した監督コーチ、選手本人の解釈と命じた側の解釈の違い、そこに言及せず監督、しいては学校当局の運営上の問題と燃え上がった炎、20歳の青年の悪質なタックル、その本道からズレてしまったこの事件。本物はどこにあるのか正しい視点がなおざりにされていく社会である。

2018.6.6


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