撤回無用麻生氏のセクハラ罪発言 |
麻生財務大臣が「セクハラ罪はない云々」の発言の撤回と誤解を与えたことに対する陳謝のニュースが入った。この発言をめぐってはメディアを含む野党議員からも認識が甘い、女性を侮辱している等々の非難が飛び交い、当の麻生氏は罪状としてセクハラ罪はないと説明してきた。にもかかわらず、「セクハラは罪ではない」と解釈し騒ぎ出したのが今回の問題である。セクハラは、男女雇用機会均等法第11条に職場内でのトラブルを未然に防ぐための当事者双方の理解と使用者の監督責任を定めている。いうなれば就業規則に近い義務と解釈できるものである。
職場内の義務が年々エスカレートして職場から社会へと広がってきた感が強い。麻生氏の世代はこうしたセクハラなどの問題は皆無であり、互いが認め合ってきた。記者団が麻生氏にどういう形で質問したか定かではないが、そうした中で「法律上セクハラ罪はない、親告罪云々」と答えたにすぎないのである。
発言の撤回の理由に「誤解を与えかねない発言だったと」と陳謝したが、発言の撤回や陳謝などまったく必要のないことで、敢えて言うなら誤解した側が「誤解でした」と麻生氏に謝罪するのが筋である。本末転倒も甚だしい。また、国会会期中にもかかわらず駄々っ子のように出席を拒否し、セクハラ発言がどうとか、その言葉尻を捉え責任の追及と辞任へ追い込もうとしている野党議員も情けない。謝罪すればことは収まるのか、この大事な時期になにを考えているのか、このところ北朝鮮の動向が気になる今日我が国としてどう対応してゆけば最善なのか、与野党が結束して取り組まなければならない課題は山積している。
このところ政治がらみの不愉快な事件が相次いでいる、福田前事務次官のセクハラ発言問題、テレビ朝日の女性記者、取材するのに何故その都度会食をしなくてはならなかったのか、それも二人だけで、こうした常軌を逸脱した取材こそ非難されるべきであって、さらに女性記者の上司たるものがセクハラ行為の相談を受けた際、何故法第11条の義務を怠ったかである。テレビ朝日側で適切な措置を講じていれば福田氏と記者双方傷つくこともなく平穏に解決されたのではなかったか。
例えば「キスさせて」の言葉ひとつとっても会話の流れや雰囲気によっては冗談だと軽く聞き流すこともできるし、また、そうした双方のやり取りは当事者にしかわからない。話の前後を考えず「キスさせて」という言葉だけを取り上げ公表すれば、当然それはセクハラだと世間は認めざるを得ない。福田氏と女性記者にしても、双方どういった雰囲気の中で会話のやり取りがあったのか、それらを明らかにすることにより「はめられた?事件か、事実のセクハラ行為か、はたまた単なる冗談話だったか」がはっきりとする。
セクハラ問題、職場の環境を良くするための法がかえって会話のない暗い職場にし、上司は上司で女性社員に対して一言一言言葉に注意して指導しなくてはならない。ある町の30人足らずの会社では、女性社員に対し「何々ちゃん」と親しみを込めて呼んでいる、「何々ちゃんお茶ちょうだい」、「何々ちゃん彼氏できたか」などごく当たり前の会話である。今日本の社会はこうした温かみのある会話が法律により消えようとしている。。
アメリカなど欧米諸国は移民等を含め多種多様な民族の集合体であって複雑な環境下では、言葉の一言が彼ら彼女たちにとってその受け取り方も様々だ。しかし長い歴史の中で育まれてきた日本社会は欧米に比べ複雑ではない、だから「何々ちゃん」と呼ばれても呼ばれた側も親しみや習慣上から呼ばれていると素直に受け止めることができる。ところが欧米にあっては「何々ちゃん」と呼ばれると自分を軽蔑しているとか差別されていると受け取られかねない、複雑な人種環境下にあってこそありうることだ。
そもそもセクハラの発生源は、欧米諸国取り分けアメリカ発の考えで、それを知識人と呼ばれる女性たちの煽動も手伝い「男女雇用機会均等法」に明記されていったのであろう。法が歩けば棒に当たるではないが、以来わが日本社会、取り分け職場内の空気も欧米並みになり下がり仕事以外での男女間の会話も激減してきた。セクハラにより会社を辞めたり配置換えといった罰を受けたご仁も多くいよう。この世は男女、会話のある楽しい職場づくりこそ国や企業が発展していくためには欠かせない必須条件である。こうした日本社会に合わない法、悪法が罷り通っては良い職場環境は程遠い、早急に見直さなくてはならない課題といえそうだ。
2018.5.11