憲法とは常識の範疇

過日民放テレビで憲法とは何かという問いが某政治学者に向けられた。学者の答えは別としてわかりやすく言うなら常識の塊である。常識とは例えば手を切れば痛いと感じるそのことを指す。これを痛くないと感じる人は非常識となる。嘘をついてはいけない、暴力を奮ってはいけない、他人の物を盗んではいけない。これらすべて常識の範疇にある。これをもとにして成り立っているのが憲法である。しかし国民生活における社会は極めて単純ではないからすべて常識非常識の考えではルール作りはできないこともある。

そして時の為政者が憲法を定めていく中で、その為政者が非常識な人物としたらどうなる。例えば戦争は絶対してはならない、これが常識であるが、非常識な人間は戦争を肯定した憲法を作る。これなど明確に常識と非常識の差がわかるが、これが国際社会だ経済だ国民社会だ男性女性とその視野を広げていけば常識非常識の差があいまいとなって個々の考えに相違が生じ、賛否両論の憲法を生んでいく。今国会で論争の憲法9条などまさにこれに当てはまる。

どちらをとっても大した違いなどない論争は見る角度で如何様にもとれるから始末が悪い。こうした問題をさも重要案件と与党野党が互いにけん制しているが、そんな暇があるならばもっと憲法の根幹に焦点を当て論点とすることが大切ではないか。現在の憲法は戦後米国を中心とする連合国軍の素案をもとに成り立っている。そこに日本国民の真意つまり常識が網羅されているかを考えていただきたい。日本人のための憲法でなくては意味がないのである。

戦後73年、こうした憲法は戦争の放棄という第9条の常識つまり美辞に酔いしれ他の条文に目を向けず歩んできた。刑法、民法など6法全体に目を向けすべてをチェックするのが大切である。だが、国民一人が個人でおこなうのは並大抵なことではない。それぞれの分野の所謂専門家たちに委ねられてきた、その専門家が果たして常識人間であるかが問われる。ここに一度成立した憲法は悪しきものでも見直すことがいかに難解であるかがわかる。

だが、今の憲法は時代遅れの条文や現在社会に即さないもの、つまり常識非常識はその時代時代で変わっていく。手を切れば痛いという常識が常識でなく痛くないが常識となる時代だってある。人造人間とかロボット人間が蔓延すれば、本来人間として動物としての常識が崩れ去ってしまう。恐ろしいのはここにある。

今こそわれわれの常識に沿った憲法こそ必要となってきた。ネット上の問題も含め医学や科学の進歩を思うに常識も大きく変わったことだろう。戦後の憲法でなく国民誰もが一人称としての憲法を早急に作っていくことが日本社会への恩恵をもたらす何物でもない。憲法は常識の範疇、それを作る為政者等がどれほど常識的な人間であるかが問われるのである。良い憲法とは結論から言うと常識ある人間たちが作ってこそである。


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