平成15年度からの消費税率アップに先立ち、政府は、低所得者層を対象に年間1万円を支給するといった内容を発表した。これこそばらまき予算の極めといわざるを得ない。一部には、生活に直結した食料品等の税率アップを凍結といった修正案も浮上したが、事務方側の煩瑣という理由から先送りされた。何が事務方の煩瑣なのか、然らば、所得層を分ける行政側には煩瑣はないとでもいうのか。

そこに思いあがった政治体質をみるのである。企業優先、行政軽視の目線である。また、低所得者層と差別して、金品を支給という発想、これほど当事者は無論国民を愚弄した政策もない。年間1万円という額がどれほど役立つものか、せめて毎月1万円となれば話は別だが・・・だが、それでは、税率アップの意味がない。

10数年前の消費税導入前に物品税というものがあった。ゴルフ道具など、当時としてぜいたく品といわれる高価なものに対しての特別税である。今日、この不況下を考えれば、こうした物品税の導入を考える方が、どれだけ国民にとって合法的な税対策となろう。借金がかさむ中、エコカー減税などもってのほかの対策である。

昨今、テレビ等メディアは、低所得者層という差別用語を使って憚らない。誰も好んで低所得に甘んじているのはない。自由主義、資本主義の仕組の中にあっては、好むと好まざるを得なく貧富の差が生じるのは自然の理となる。人間個々の欲の差と学歴等、生まれ育った環境の差が要因となるからだ。これを正さぬ限り貧富の差は埋まらない。全世帯が、年収1000万以上の所得を得ることができる国家ならば、何も問題はない。

安部内閣は、努力すれば報われる社会の実現と、小泉時代の詭弁を持ちだしているが、努力して本当に報われるのか、それは一部の人間に当てはまっても万民には当てはまらない。例えばサラリーマンの場合、能力第一主義を翳せば、自ずとその人間の能力差が先行し、努力しても限度という壁がある。また、上司や周りの人間にごまする人間とそうでない人間とでは、出世する速度に差が生じる。それは、、お互いが人間という欲の塊であるからだ。

今回の素案、低所得者層に対し、年間1万円という施しのような金をばらまくとは言語道断である。このような政策が罷り通るようでは、日本はいつになっても、駄目国家、借金大国のままで終わってしまう。政界には、もっと良識的な考えを持った人物もいるだろう、その彼らの意見に耳を傾け、活用することが重要となる。だが、そこに立ちはだかるのが財界という悪徳商人たちである。悪人は善人を駆逐する。悪貨は良貨を駆逐する政治体質の極めである。これを根本から正さぬ限り、平等社会の実現は不可能である。

2013.01


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