独裁政治の危険と総理の権限 |
総理の権限とは、どこまでが鶴の一声の範疇なのか改めて問わなくてはならない。国会は、一閣僚のミスを任命権者である総理の責任として追及する。これにはどうしても合点がいかない、そこに幼児性をみるからだ。当の閣僚にしても己の進退を問われれば「総理が判断すること・・・」と自らの意志ではなく総理の指示に従うこの一言がすべてを物語る。過去においては普天間基地移転問題、日米合意を否定した閣僚をその場で罷免する総理の権限とは何か、これでは総理の独裁化を容認しているようなものではないか。
日米合意の前になすべきことは、閣内でしっかりと意見集約した上で米国と打ち合わせるべきである。米国の力に屈した従来型の合意案を閣内に持ち込み、反対した閣僚の意見も聞かず罷免するとは到底許されるべきものではない。その責任を取って当時の総理鳩山氏は辞任した。テレビはこれをブレた姿勢と非難した。何もブレなどない、県外移設の実現がアメリカ寄りの閣僚達によってその道が閉ざされたからである。
6年前、廃案に追い込まれた郵政民営化法案の処理、総理の一言で反対する閣僚は罷免され、解散に追い込み法案を成立させた、これが民主政治なのかと国民に問う。総理という権限は決してこのように個人のおもいのままに処理できる権限ではない、賛否半ばの拮抗した問題に対し最終結論を出すのが総理の権限であり、リーダたるものの最小行使ではないかと考える。ここにも、リーダシップのはき違いをみるのである。
独裁政治の社会は、格差社会を増長させる、それは優位な立場に立つものはその権力をフル稼働させて富を増やし、反対に弱い立場の人間は益々力をそぎ落とされ貧困に苦しむ結果となる。誤った権力の行使は、軍国主義に導かれた過去の我が国の再現である、その果ては、弱肉強食を好みとする輩の出現を呼び込み戦争という最終結論に到達していく。
改めて総理の権限について問う、民主政治の根幹は多数決の上に立って決められるものである。だが、多数決といえどもそれを束ねるリーダーの資質いかんによっては必ずしも正しい選択とはならない、ましてそこに日米同盟の綾の中でアメリカの圧力がのし掛かってくる。大切なことは、その圧力を払いのけるだけの器量と力量が今の日本のリーダに備わっているかである。
力量のないリーダーはその圧力に屈し、己の権力を行使して独裁政治に走っていく、そして今、野田総理は消費税法案に政治生命をかけると豪語して進んでいく、反対派を力で説き伏せてまでもか、ここに危険な独裁政治の兆候をみるのである。
2012.06