一国の長は誰が相応しいかを問う

ここ数年来知事や市長など行政の長の若返りがやたら目立ってきた、この若造が…大阪府前知事橋下氏への反発が色めき立っている。正にこの若造である、わが子のような年格好の知事や市長では不満が募ればこうも叫びたい。

長とは誰が相応しいのか改めて国民に問う、若さだけで気合だけで選挙戦を勝ち抜きその道の長に収まる現代の風潮は、時代の流れ変化と割り切れない。それはまた拙速な判断で投票する者が余りにも多いということにも繋がる。

独裁者という語呂も目立つ、これは前総理小泉純一郎の時代から際立ってきた。なりふりとパフォーマンス、スローガン、はったり、これを武器に思いのままに自己の考えを主張し決定する、解散そして郵政民営化選挙がそのよい例である。

橋下氏もまさにその例外ではない、ここに東国原前宮崎県知事を並べればその全体像が浮かび上がってくる。彼らに共通するはテレビをバックにおばちゃん族の人気を独り占めした輩たちである。テレビという今時の魔物に国民はその判断を揺るがされてきた。

一国の長には仕事への力量だけでは測れないものがある、年功という背中である。この背中なくして一国の長は務まらない、またそうでないと誰もが納得し後についてはゆくまい、それは安心できる社会に繋がらないということだ。

企業が導入した年功序列型からの脱却は果たして正しかったか、一部においては成功しても他方様々な課題も残してきた。企業の過ちは一企業に止まるが、一国の選択の過ちは社会全体に波及し、国民生活に大きく関わっていくことになる。長たるものはその名のとおりすべてに長じたものでないと務まらないということだ。

2011.11


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