長き裁判に正義なし・布川事件 |
長き裁判に正義なしとは本当のことだ。無期懲役一転無罪、これが真実としての判決だろうか、どうみてもゲームごっこの遊びので中の裁判のように感じてならない。昭和42年茨城で起きた布川事件、無期懲役刑が再審で無罪となった。彼ら二人は団塊世代の64歳、当時62才の男性を殺害した罪で44年の間無罪を主張して争ってきた。
経済成長の真っただ中で彼ら二人は何をしていたのだろう。就職も思いのままなこの時代食っていくのがいっぱいという戦後の時代とはまるで社会が違っている。にもかかわらず窃盗容疑で逮捕されたというのは真実なのか。もし仮に事実なら彼ら二人は不良青年のレッテルを貼られていたに違いない。死人に口なし、既に被害者はこの世にはいない、彼らがやっていないとなると誰がやったのか。
思い浮かぶは彼らの交友関係ということになる。二人に容疑をかけ、くらました犯人、彼も団塊の世代の人間であろう。団塊世代は極めて合理的な考えで行動する、自分に得なことは積極的にするが、その反面、益のないことは進んで行わない。挨拶一つとっても、自分の上司には挨拶するが部門の違う上司や先輩には顔色を見て挨拶する。昭和40年代当時彼らを「現代っ子」と呼んでいた。
その現代っ子二人が無罪となった、喜ぶ姿も現代っ子の面影がちらついた。常に再審で思うは何故という疑問である、そこにはなにか割り切れない法のむなしさだけが残る。人が人を裁くということが如何に難しいということか、だが、誰かが裁かなくてはなるまい。人間である以上過ちだってある、過去の判決で罪なき人が処刑されたことも多くあろう、だからといって裁判を恨んでも仕方ない、完全なる人間などこの世にはいないからだ。
その何パーセントかの過ちを人間の知恵で解決していくしかない。それには時間との戦いが最重要課題となろう。時間の経過は当時の匂いを失っていく、容疑者も時間の経過とともに罪意識も記憶も希薄になり、自分は犯人ではないと思いこむことだってある。記憶の希薄は物的証拠が明確でない限り確証は困難に陥るだろう。その後は検察も責務のように証拠集めに奔走し、犯人仕立てに取り組んでいく、弁護側も検察相手に格闘技のように自論を翳し勝利をものにせんと戦いを挑んでいく。
この時からすでに正義など存在しないということだ、己の名誉と仕事への責任感だけが先行してしまうからだ。長き裁判に正義なしとはこうした義務感だけで処理していく裁判のあり様を指す。
裁判とはそもそも何か、犯罪に対して検察側と弁護側との争を指すのか、本当の争いは容疑者自身の心との争いである。それが年月が経つにつれて検察側と弁護側の戦いになっていく、そこに正義から外れた裁判が始まるのである。
2011.05