責任の所在、福島原発事故 |
今回の原発事故の責任を東京電力一極に集中されてきた感が強い、本当にそうなのか考えてみたい。大地震と津波という想定外の事故であることは誰の目にも明らかだ。然らば如何なる安全対策を講じたとしても自然の力には到底かなわなっかということも認めざる得まい。放射能漏えいの責任は人間社会がもたらした事故といってもよい、それを運用した東電に全てあるわけではない。新聞テレビ等メディアを通し、いつの間にか東京電力の過失事故のように歪曲されて国民の目に映った。
事故発生後、東京電力社長自ら現地に出向き、住民に向かって頭を下げて謝罪した。住民達は社長に全ての責任があるかのように怒りをぶちまける一こまを見て、それは間違っていると感じた。地元住民にとって原発の恩恵は多く受けてきたはずである。雇用に係わる経済的効果を見ても一目瞭然である。
仮に今回の事故を人災と位置付けるならば、それは原子力発電を推進し、容認した当時の政府責任ということになる。福島原発を辿れば1号機の着工が昭和42年9月、高度経済成長の真っただ中のことである。誰もがこの夢のようなエネルギーに対して反論するものも少なかった時代、そして2年後に営業が開始され電力供給量が大幅に増えると、企業や家庭に思う存分低価格で電力が受給できた。
のど元過ぎれば熱さ忘れるとは人間の性であろうか、関係地元住民にとっては他人ごとではない大きな損害を受けている。天災と分かっていてもそれで気持が治まるものでないことも重々承知である。だが、人生様々な困難にぶつかり運不運の波に乗せられ一生を棒に振る人間だって多くいることも事実である。天災と諦める勇気と決断こそ被災された人々にとって重要なことではないか、その勇気が必ず復興への力となって湧いてくるものだ。
責任が政府や東電にあることは誰の目にも当たり前と映る。だが、本当の責任は我々人間のエゴではなかったか、昼夜問わず灯りをともすコンビニやガソリンスタンド、自動販売機そしてテレビ放映など身近な所に責任の要因があるということだ。それを容認してきたのが我々人間である、便利、便利とわがままな人間欲を増長させてしまった。今回の事故はそのことへの警鐘と受け止めなくてはなるまい。
2011.05