須田国太郎

京都市美術館で開かれていた展覧会場でみた須田作品のいくつかは、下塗りの上に施されたおつゆ描きの跡が残っていた。初期の作品であろう、会場の照明の加減で見る位置によってはぎらついている作品もかなり多く見られた。その点が印象派と呼ばれる画家との違いである。
夏の朝 至文堂”近代の美術”より出典
左の写真は、夏日農村と題した作品であるが、最初に白と黒のモノトーンで陰影をつけ、その上から褐色系の絵具と緑青系の絵具でおつゆ描きしたものと思われる。なぜなら作品から発する光と影は混色では到底表現できない輝きを持っている。特に影の部分などは、黒いという印象ではなく、むしろ輝いて見える。

日本画で用いられる白絵具は胡粉と呼ばれる貝殻を砕いて粉にしたもので、非常に透明度の高い白といわれる。その透明性を利用して赤や黄色といった有色の上に塗り重ねることによってやわらかな色合いを生む、反対に西洋画では、堅牢で不透明な白(シルバーホワイト等)の上に色を重ねることにより様々な色相を生んでゆく。

須田の専門は美学美術史の学究で、若い頃には専ら独学で画を描いていた。ある人の勧めで関西美術院に入りそこでデッサンを習ったと聞く、デッサンだけは独学では駄目だ、先生について習わねばいけない、これが勧めた人の言葉である。

須田の学究としての研究は、何故絵画が東洋、西洋と別れていったかである。須田の画の難解な表現もそこにある、所謂、技法上は西洋絵画の基本であるグリザイユ法による物体色の表現と、東洋絵画における固有色の表現、この二流を如何に画面に採り入れるかといった技法である。

描いては削り取るといった描法は、線描に拠らず物の輪郭をより明確にする手法であり、削ることによって下地に塗った色彩と混合せず並置的に色が置かれ、光源のある作品を生んでゆく。褐色の基調は何か、自然はそれ程明るく輝いてはいない、という言葉を須田自身述べている。

それは印象派に見られる、明るい色調が必ずしも自然の再現(リアル)ではないことを指摘している。写実(リアル)の根底はいかに自然を忠実に描き出すかにある、セザンヌに見られる色調、褐色もここにある。
セザンヌに学ぶ須田の目は、自然をよく見ること、物の形、変化する色相を忠実に写しとる、感動ではない、そこに学究としての理性があり、セザンヌに通じるものがある。


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