宮 芳平 |
昨年の9月、安曇野市豊科近代美術館で開かれていた「宮 芳平展」に行った。ほとんどの来場者もそうであるように、私もその類でNHKテレビ「日曜美術館」で紹介され初めて宮芳平を知った。会場の前に来ると椿という大作が前面に出迎えた。そのすざましい迫力と筆致に画家の情念を垣間見た。画家として自立できなかった宮は、長野県のある女学校で臨時の美術教師をして生計を立ててきたといわれる。
椿は暗い画面の中に確かに椿らしい赤い花がそこ彼処に浮かび上がり、その中からキャンバスに刻み込まれた一人の女性像が透かしのように浮かび上がってくる。点描で書かれている絵の繊細な神経と努力には頭が下がった。しかし、それは何のことはない当たり前のことである。画家が一心不乱に身を削り描いていれば自然と画面に表れてくるものと反問した。
宮の絵への集中力は奄美の画家田中一村にも通じているのではないか。こうした才能は誰人にも備わるものではない画家だけに与えられた才能と思っている。田中一村も奄美に移住し絵の制作にすべてを捧げた。宮芳平も同様に絵一筋に生き抜いてきたに違いない。嘱託教師として美術の担任を任されていたが、一切絵の描き方について生徒たちに教えなかったという、その考えに好感を持つのである。絵は教えるものではない、教えられていくものである。
私も高校時代、初めて油絵具でカンナの花を描いた。ベニヤ板になすり込んでいったあの気力が椿の絵と重なった。どちらの絵がよいか、うまいかを論じてもせんないが、絵に対する眼力、知力、描写力は絵そのものに表れてくるものだ。
宮芳平が自信を持って第8回文展に出品した「椿」が落選すると、当時の審査主任だった森鴎外に自分の絵の評価を直に聞きに行った。こうした行動は北海道岩内の画家木田金次郎が、有島武郎を訪ね絵の評価を伺ったのにも通じる、宮の絵に対する執念そのものの表れであろう。並みの画家には到底真似などできまい。人には何度か出会いがある、その出会いを活かすかはその人の選択だと、木田をモデルに書いた漁夫画家の作家八木義徳の言葉にあるように、宮芳平と森鴎外の出会いも偶然のようではあるが、必然だったといえるのではないか。
こうした画家の存在を知ると、恵まれた環境でマスコミの脚光を浴び、大家然として生きているエリート?画家に何の興味もない。公募展に見られる入選だ・・・賞と審査を受ける絵も、審査する人間も、またそこに群がる人間たちも何んともむなしい人間模様にみえてくる。
豊科近代美術館常設展示へ