洲の内徹 |
新潮社発刊の芸術新潮に連載されてきた故洲の内徹の”気まぐれ美術館”は、彼の絵に対する見識の新鮮さと的を得た批評が私の心に強く共鳴をした その中で特に心に残ったのは、1983年8月号「人間不在」と題した短評である。
若者の素振りがどう見ても人形のように無意識な仕草で、人に見せるという行動が身についてしまったか、6人の若手の画家たちと、吹上駅のヤアーさんとはどこか似ている気がしてならなかった。あのヤアーさんの仕草は、私にはことごとく操り人形のように見えた。
彼を動かしているのは彼自身ではなく彼ではない何かなのだ。彼が本物の人形ならまだしも、彼は人形でなく正真正銘の人間ではないか、人間不在の人間という彼の在りようが・・・
絵を描けば見せる、見せるために絵を描く、6人の若手の画家達を洲の内は操り人形に見立て、そのメカニズムに疑問を投げかけているのである。
どの公募展を見ても、大声を上げたものが勝ち、といった絵がずらりと並んでいる、別の気まぐれで洲の内は述べている。
これが個性と言わんばかりに塗りたくった絵、先生の手本どおり描きましたと大声で叫んでいる絵を前にすると、何故か充足感のない不幸な気分になってしまう。
作品を世に問うことは決して考えられるような不純なことばかりではない、と須田国太郎に個展を勧めた日本画家神坂松涛の言葉に、画を見せることへの不純さの指摘もある。さらに画は見られるためのものであり、その機会を与えるのは画家として当然である、と述べている。6人の画家達に欠けているのは、この不純さをいかに払拭して展覧会に臨んでいるかといった態度なのだろう。
小林秀雄は、洲の内を当代切っての批評家と評していたが、州の内の絵に対する批評は正にそのものずばりを言い当てていた。絵は上手くなっても良い絵にはならないと別の気まぐれで述べているが、上手い絵とは技術的にみて確かであっても、それが決して良い絵とはならないと指摘している。その例として彼は同い年の松田正平氏を評価していた。正平さんの描く女には色気を感じる、それは線にあると、正平さんの描く犬は、本当に噛みついてくるような犬である。松田氏はそのことに照れながら、大分持ちあげすぎていた部分が多くあったと謙遜していた。
続く・・・