木田金次郎

大正時代、有島武郎の「生まれ出づる悩み」のモデル画家という肩書きで、生涯北海道の岩内に住み、岩内の風景を制作し続けてきた孤高の画家、木田金次郎を紹介する。

「一度この絵を前にしたら、暫くは目が離せなくなる」、作家八木義徳が評した作品が、1950年に描かれた「落暉」である。赤く染まる空に白と緑の渦巻くような太陽が浮かぶ、濃い緑で塗られシルエットのように立つ前景の木々、白い線描が夕暮れの光を引きずり、彼方へ消えていく道、奥行の深い風景、見るものを何とはなしに静寂な世界に引き込んでいく、それが「落暉」という作品だ。

私が、木田金次郎を知ったのは25年程前になるだろうか、NHK教育テレビ日曜美術館である、その時のゲストが八木義徳氏であった。氏の木田への思いは、氏自身の小説「漁夫画家」に表わされることになる、漁師をしながら絵を描いていることに、驚きと畏敬を感じたという。
ポプラ 木田金次郎美術館より出典
八木氏が、はじめて木田を訪ねたのは1952年の夏40歳の時である。その時の木田を、有島武郎の「生まれ出づる悩み」では、・・・筋肉で盛り上がった肩・・・牡牛のような太い首・・・と表現されているが、流石年のせいか、背は高く痩せていて、飄々として枯れて鶴の様であったと述べている。しかし、体は頑健であった、往復八里(32Km)の道を毎日写生に出掛けていた。

木田の取り出した何冊かのデッサンや、スケッチを見ていくうちに、八木は胸の痛くなる思いを感じた。同じモティーフが、何度も何度も繰り返し描かれていたのである。さらに、木田は年代を逆に遡りながら油絵の作品を順々に見せてくれた。期待と不安の中、海と岩と松のある風景を前にした時、八木は金縛りにあった、深く、厚く、激しく、しかも静かな絵だ。

徹底的な孤独の中で、ひたすら自然を見つめ、自然と取り組み、自然とねじ合い、ついに自然を征服したあの厳しく孤高の画家セザンヌの「崖」と重なった。感動は少しの緩みもなく、最後まで持続した。そして、何十枚目かに、それだけが額縁に入れられた一つの絵を前に置かれたとき、思わず声を発していた。

凄ざましいほどの迫力を持った絵である。チューブから直にキャンバスになすりつけたかと思われる絵具が、ほとんど過剰といえるほど厚く盛り上がり重なり合っている。自然の量感を絵具そのもの量で競おうとする、まるで子供のように無謀で無邪気で、しかも烈しい気合いを叩きつけた絵だ。 (漁夫画家より)

晩秋のポプラを描いた、12号程の風景画である。(右図参照)木田29歳の時の作品であり、運命的な出会いの師、有島武郎が生涯書斎に飾っていた絵でもある。


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