田中一村 |
奄美で働き稼ぎそれを元手に絵を描き続けた画家、田中一村を紹介する。入学して2ヶ月、これ以上学ぶものはないと東京美術学校日本画科を中途で退学し、後は独学で研鑚に努めた。
天才少年と言われた一村が、第19回青龍社展に入選したのが41歳の時である。中央画壇に背を向けたのではなく寧ろ画壇が一村を避けたといった方がよい。日本の最高学府東京美術学校を中途退学する、それも人並みならぬ理由からである。美術学校の権威にキズがついたといっても良いだろう、当然その上に立つ中央画壇ならば尚更である。
自らに厳しく画家としての純粋な考えが孤独の境遇を選んだのであろうが、それは、西洋における印象派の巨人、セザンヌにも通じる。
一村が奄美大島を選んだ理由は何であろう、単純に考えれば、生活のためではなかったか、パンのための絵を拒否する、そのためには最小限度の出費しかない、これが常夏の奄美を選んだ理由と思うのだが・・・・
一村が青龍社展に入選した作品「白い花」は、清楚な花に覗き見るような得体の知れない小鳥を配した画である。この得体の知れない小鳥の描写が晩年の奄美の表現と重なる。
奄美大島の自然が一村に与えた影響は彼自身にしか判らない、傍で憶測することなど奥がましい、作品から感じるだけで十分である。
自然を凝視するその眼差し、自分に科せた厳しさは、実際に筆を執った者でなければ解らない。一点に集中し、対象との何時尽きるともない無言の会話、これが一村の絵である。
西洋におけるシュルレアリスム的な画風を出してはいる、それは一村の頭の中にも意識の上ではあったに違いない。
生活を極限まで落とし画布に向かう、その研ぎ澄まされた精神が細密な描写となって表れるのだろう。食い入る描写、物の実在を執拗までに見つめる画家の目、生きるとは描くことと同義なのだと見るものに迫ってくる。
紬工場で一番の働き者といわれた、そしてその賃金の殆どを画に注いでいった。名誉を捨てる者など一人もいまい、薄汚れた世界の名誉に背を向け、ひたすら清廉な世界へと進んでいった一村、奄美の不世出の画家一村という名こそ、彼が求めた終焉の答えではなかったかである。