政治、社会、気象 |
国会劇場の開幕
毎年この時期になると通常国会の中継が入る、その都度疑問が涌く、何故、各党の代表者達は同じ内容の質問をするのかである、もっと不思議なのは、答弁側の閣僚達全員が原稿を読んで答弁している姿である。こんな不思議な質疑応答があるのかとまじめに考えてしまう、台本どおりの芝居は議員という役者の晴れ舞台といったところか。
今国会も各党の代表者は、外務省機密費の問題、KSD疑惑の証人喚問、景気対策、のセット質問である。もっと他にあるだろう、外国人による凶悪犯罪に対する治安等、緊急を要する問題は山ほどある。
しかし、これらをおいても最重要課題は13年度国家予算審議である。ところがこれも省庁任せのシナリオができている、国会で討論するには些か勉強不足で実のある答弁は期待されない。そこで、野党各党も与党をいかにしてこけ下ろすかの戦術に切り替えたということか。
昼間の国会中継では、仕事でTVやラジオに付き合ってはいられない。それをよいことに国会劇場は、やりたい三昧の茶番劇である。真剣に国を考える討論がない、質疑のための質疑、答弁のための答弁、全てに用意万端整っている、身振り手振りよろしく壇上で演じる議員達、正しく国会劇場の舞台である。
国会は、国民の代表討論の場である、演技でない生の声を望んでいる、失政の責任のなすり合いや、言葉尻を捉えての中傷論ではない、政治家のあるべき姿を壇上にぶつけて頂きたい、このままだと日本丸は沈没、いや他国から撃沈される運命にある。
政治家の神経
悲惨な事故も、あ-る人間の神経の無さが悲しみを素通りし、滑稽と思われる醜態を演じきった。その人間は勿論、悲しいかなわが国の総理大臣である。
森氏の人柄はともかく人の上に立つ器ではない、ということを今回の態度がより明白にした。政治家の神経は常人を越えたものである。古来、太い神経の持ち主には、政治家、詐欺師、成金、女郎屋の亭主、石川五右衛門が上げられる。
事故発生当時、ゴルフ場にいたという場所が悪かったのか、と記者団に喰ってかかる神経である。一国の主がこうした神経では、舵取りも任せられまい。
小渕氏亡き後、棚ボタ式に廻ってきた国家最高の座が、一層森氏を有頂天にさせ、事の全てはその担当者に任せておけばよい、わざわざ総理たる者が出るには及ばぬ、といった殿様意識が彼の性格なのであろう。傍からとやかく忠告しても当人には何の効果も無い、忠告の意味が呑み込めないのである。
二十一世紀の初頭に際し、とんだ総理を生んだものだと天を仰ぐ、彼の支持部隊の者たちは、周りの非難にもまるで動ぜず、今後も森内閣を支持していく、と席を発った。正に政治家の神経である。
厳しさ足りぬ気象庁
3月2日付け朝刊に、気象庁は北日本について13年ぶりの”寒冬”と発表した。先ず、” ”内の漢字は何て読むのかと聞きたい、記事の過ちか、いずれにせよ辞書にも無い漢字が出てきたことに唖然とした。今年は暖冬と予報した、その予報も見事に外れ、暖の反対、寒と訂正したのか定かではないが、いずれにせよ、いい加減な当て字である。
発表では、平年と比較して1・5度低かったというものである。ここ10年といった記憶にある範囲でのデータに比較しての発表ならまだしも、30年のデータときてもピンとこない、30年前はどんなだったかと覚えている人など先ずいない、そうした訳のわからないデータを翳して発表する体質が、旧態然とした官庁のやり方なのである。時代の波に乗り遅れている原因の一つでもある。
時代に遅れていると言うのはソフト面のことである、それに反しハード面においては、観測衛星をはじめとするデータ収集、コンピュータ処理の充実は目を奪うものであろう。
しかし、予報の正確さは昔の方が勝っていたのではないかと思う。人材の問題も指摘される、テレビ等で担当する気象協会の職員をみると、全く質の低下を感じさせる者達である。駄洒落に始まり演技もどきの自己アピールなど、NHKとの係わり合いにも問題がある。
そこにきて、当らないとあっては益々気象庁の印象が悪くなる、今年の暖冬にはじまり緊急を要する警報、注意報のタイミングの悪さ、台風情報、大雪警報といった重大情報も悉く大きく外れる始末、何が原因か、近年地球環境の急変で予想がなかなか立てにくい状況にある、と釈明をする。それなら何故、平年というデータの中身を見直さないのかである、曖昧なデータこそ百害の元である。
いい加減な予報は無い方がよし、と斬りたい。イソップ物語の「狼と少年」の話を思い出す、初めは、狼が出たあ!と叫ぶ少年を信じ村人は警戒した、しかしそれが嘘と分かってからは誰も本気にしなかった、ところが今度は本当に狼が現れたのである、狼が出たあ!と少年が知らせても、誰も本気にせず狼の被害に遭ってしまった、という話だ。
今、正にその状況なのである、大雨だといっても誰も信用しない、暖冬だといってもである。だが、万一その予報が当ったとしたらどうなるのか、悲惨な災害を起こすことになるのである。
常日頃の何の変哲も無い状況での予報の外れは直接災害には結びつかない、しかし、当らない予報が慢性化し、誰も本気にしなくなったらどうなるかである。
NHKの天気予報で、3時間前の天気図を引っ張り出しての解説等を見るに、既にその使命に終わりを告げねばならない時と感じた。
続、国会劇場
煮え切らない森政権である、辞めたくないというのが本心だろうが、国家は私的なものではない、私物化してきた訳でもないが、政財界の汚職事件や緊急時の対応、国民に対する非常識な発言と無神経さ、どれをとっても総理としての責任は大きい、辞める筋書きをマスコミが示唆したにも拘わらずである。
某週刊誌の見出しに、森氏の娘婿が、ITのおかげで大儲けといった記事があった。それが誠か全面的に信用はしないまでも、やはりなあ、といった感は強まる。
昨年総理就任後、それまでITのIの字も出なかった社会に忽然と現れたIT、何故か、何人組みでもよいが、小渕氏亡き後の総裁選びの密談、森氏がその一角に現れるまでの根回しにITがあったのは事実であろう。
野党各党の今国会での甘さを嫌というほど見せ付けられた、内閣不信任案の提出も、時期を見定めない大ちょんぼ劇、結果が判っているのは明らかではないか、何のためかと理解に苦しむ、国会劇場の茶番劇そのものを演じている主役は寧ろ、野党にある。
えひめ丸事故直後の首相の資質を、マスコミ各社をはじめ国民も挙って指摘してきた、何故盛り上がったその時期に提出できなかったかである。報道によれば野党は提出時期をいつが適期か狙っていたと伝えていたが、開けてみれば衆議院終了後の醒めた時期であった。
ここで、民主党の鳩山氏の発言が解せない、予算審議中に森氏が辞表を提出するならば、野党は今後の予算審議に出席しないといった発言である。彼の言い分は、森氏が責任を取って辞める国会は審議に値しない、総辞職をして国民に審判を受けるべきといった考えである。それなら何故代表質問で、えひめ丸事故後の森氏の資質を問い、総理自ら辞めるべきだと宣告をしたかということだ。あくまで森氏個人の資質の問題であった筈だ。
与党が政権を維持できないなら野党にとって変われとか、総理が辞職しても今のままでは政治は変わらないとか、野党の対応が益々森氏個人の責任追求から脱線し、国会での緊迫感を失わせてしまった。
国民は、政党間の権力争いや駆引きなどに興味も無い、えひめ丸事故での森氏の行動発言が、総理としての資質に疑問を投げかけ、今国会でそのけじめをどうつけるかに関心があったのである。
森内閣の支持率の低下と国民感情を利用して、解散総選挙を狙うといった皮算用を目論み、不信任案提出時期の好機を逃したといえる、いずれにせよ、無駄な小細工に過ぎなかった。
我々にとって総裁選前倒しがせめてもの慰めである。その立役者は、野党でもない、自民党内部の力であった。国民の要求を敏感に察知する神経が、今国会をとおし最大課題といえる。
ドラマは健在!選抜高校野球
21世紀幕開けの選抜高校野球も準決勝を迎えた。茨城、常総学園対大阪、関西創価高校の一戦をテレビで観戦した。小雨がぱらつく甲子園球場、午前11時関西創価の先行で試合が開始された。
選抜といえば、過去に何度と波乱に満ちたドラマが展開されたことか、春浅い3月という気象条件がプレーする選手に様々な苦難や課題を与え、そこから生まれてくるプレーに感動をするのだろうか。
思えば10年前の選抜大会の光景が目に蘇った。1993年3月29日第二試合、大宮東対崇徳高校、終盤大宮の攻撃中、天気はめまぐるしく変わっていく、突如雪交じりの雨が激しく降りだした、テレビの画面にもはっきりと映し出される、正午の気温6度、雪が舞い始めた、手を口にもっていくピッチャーの吐く息が白い、暗雲漂うダイヤモンド、テレビ画面が一瞬暗くなった、試合は中断された、10分程経っただろうか今度は突然晴れ上がった、ピッチャーズマウンドとホームベースの間に立ち昇る靄、其処だけがスポットライトに浮かぶような幻想的な光景を醸し出していた。
試合はこれを境に大宮東が逆転勝利を収めた。気温6度という真冬並の寒さ、靄が立ちはだかるダイヤモンド、どれをとっても守りについた崇徳に不運としかいいようのない気象条件だった。
今回の選抜にはそうした気象条件や大逆転といった特筆のドラマは見られなかったが、今戦い終えた常総学園、関西創価高校の試合は、好投手、野間口の力投、再三のピンチを救ったセンター南山の好返球、そして勝利の立役者となった6番出頭の絶妙な一塁線へのバントヒット、それを決定づけた7番横川の右中間長打と、高校野球のドラマは敢然と今も生きていることを知らしめてくれた。
性転換手術
米国で不妊女性の卵子に、別の女性の卵子の細胞を注入した赤ちゃん遺伝子改変に、各方面から倫理面での批判が出ている。倫理という物事にこだわらない研究が、アメリカ医学会の実態ではなかろうか。新しいものの開発、世界に先駆けた開発それのみに目を向けた研究、恐るべき社会と云わねばなるまい。
こうなりたい、ああしたいといった限りない欲望が、医学の研究者達を操っている。人間の欲望のはけ口が、何か狂っていないかである。わが国でも近年、性転換手術が盛んに行なわれつつあるという、そしてその後の戸籍上の問題が今取り沙汰されている。
親から自然な状態で生まれてくる、その自然を医学が断ち切り不遇な生命を与えたのか、あるいはその人間の欲望の現われなのか、当事者でなければ判るまい。
だが、医学がそうした治療に答えられない状況だったら、その人はどうするのだろう、生きていけないのだろうか、あるいはじっと耐えて生きなければならないのだろうか。戸籍上の問題は、就業する時に不利になる扱いを受けるとか、結婚が出来ないといった様々な問題を投げかけてくる。
親から授かった命の重さ、という点でどうであろう。容貌が生まれながらに醜かったり、生まれながらに社会への同化の出来ない体であったり、俗な言い方だが頭が悪いため大学へも行けない、生まれながらの貧乏で十分な教育を受けられなかった人たち等など、この世は須らく不平等な環境を授けてくる。男性という性が合わないから女性になりたい、女性が合わないから男性になりたい、というのはその人間の欲望にほかならない。
そうした欲望を技術で叶える、医学の過ちはそこにあるのだ、永続的な人間の生命を無視し、技術のみ先行した医療が、真の医学の根底を崩し、自然の流れを阻止し、様々な難問を社会に産みつけていくのである。医は仁術、という観念は何所へいってしまったのか、人間の欲望を抑え、希望を施すことが医療のあり方ではないかと
大阪池田小学校殺傷事件
大阪市の大阪教育大付属池田小学校に男が侵入、男は逃げる児童を包丁で切りつけるといった事件が発生した。この事件で29人の児童、先生が被害に遭い、そのうち8人の児童が亡くなったという痛ましい事件であった。
さて、進入した男はその場で警察官に逮捕された、男は、大量の精神安定剤を服用し、精神が錯乱状態と男自身怪我を負っているという理由から病院で手当てを受け、回復を待ってから取調べに入った。その結果、男は計画的に小学校を狙ったとの発表があった。報道各界の発表にもこの痛ましい惨事に怒りが込められていた、しかし、一方そうした社会の常識に現法を照らすと、法律というものの理不尽さが今回ほど目立ったことはあるまい。
ある民放TVの男性タレントが放送中、法律はどうなっているか詳しく判らないが俺だったらその場でこの男を殺してしまいたい、と言っていたが正しく然り、普通の神経なら異口同音であろう。
さて、この事件で弁護士の皆さんはどう受け止めているだろうか、薬物使用による精神の錯乱状態に注目し、例の冷ややかな弁証で責任能力を問い、無罪を主張するのだろうか。馬鹿も休み休みにせよと怒鳴りつけたい、だから、世の中の凶悪な事件が後を絶たないのである、社会の常識という大切な目が倫理であり、法律なのである。文字化した法律に何時までも拘っていては、死んでいった子供達の無念さは払拭できない。加害者の人権を考える前に、被害者の人権を考えるのが順序というものだ。
殺人は、被害者の人権は消滅した、だから、残された加害者の人権を擁護する、それこそ一方向の法であり、片手落ちの悪法なのである。政府当局は、現法を照らし見直しも必要と述べている。今回の事件を教訓に、厳格な取り組みを期待したい。
予断だが常日頃思うのは、犬や熊といった動物が人を襲い死に至らしめれば、即射殺するだろう。たとえ人間側に過失があってもである。この時、動物達の生きる権利はどうなるのだ、須らく人間に都合よく解釈し、自然の営みを無視した冒涜ではないのか。
今回の事件にみる男は、錯乱状態で既に人間を逸脱した単なる野獣に等しいのである。その加害者に人権云々は無用であろう、即射殺という厳しい処置が採れなくては、これからの社会の治安は益々壊滅の一途を辿ることだろう。
2001.6.9